■死刑制度については 過去に何度も文章をかいてきた。■乱暴にまとめるなら、?ぬれぎぬ・まちがないなど「冤罪〔エンザイ〕」の危険性がなくせない*。■?刑務官を殺人の実行者とさせるという、非道な制度である。■?国家の交戦権とおなじく、「国家は合法的に殺人してよい」という論理を正当化してしまう。といった論理で一貫して反対してきた。

* もちろん、再三のべている、とりしらべ過程での弁護士などの同席とビデオ録画などを義務づければ、かなりの程度なくせることは、たしかだろうが。

■ただ、?国家は なぜ死刑囚に自殺をゆるさないか(事実上「終身刑」というべき、長期執行停止状態の死刑囚の存在もふくめて)とか、?国家は なぜ宗教家など説教師に改心させるような「教育刑」的な家父長型介入をおこなうのかについては、死刑制度の非合理と感じつつも、モヤモヤがのこっていた*

* 前者は単に非人道的であり(死刑判決をくだしながら、長期の「なまごろし」状態だし、特赦などによる死刑の中止といった、あわい期待もかけさせるなど、むごいことは、明白だ)、後者は思想信条・内面の自由にかかわるゆるされない介入だ(かれらが世間的に極悪非道の倫理水準のまま死んでいこうと、それこそ個人の自由だ。改心させて、おだやかにしなせてやろうといった教育系的介入=それは、オーウェルの『1984年』の主人公が処刑されるときも、論理的にはおなじであった=が失敗したばあいは、つみの意識に心理的に破綻しそうなところまで おいつめたうえで、ころすという、実にサディスティックな所業になる)。

■それが、きょう社会学者SUMITA氏の『Living, Loving, Thinking』の記事「死刑を巡って幾つか」をよんで氷解した。
……
 …国家にとって死刑の執行それ自体はそれほど重要ではないのではないかと不図考えた。何故「法務省は死刑執行に関しては詳細を発表し」ないのか。フーコー流には、そこに絶対王政と現代との権力(暴力)の作動の仕方の違いを読み取るべきだということになろう。確かに、絶対王政における暴力の主体は王という固有の身体である。それに対して、民主主義的現代においては、暴力の主体は〈国民〉という不可視のものになっている。また、現代の権力は主体を形成する権力でもある。死刑囚はどのような主体として形成されるのか。それは自らの生/死が(神仏ならぬ)国家(国民)の掌中に完全に握られていることを諦観する主体として? 牛や豚や羊の生/死が飼い主に委ねられるように? 死刑という制度は特定の人物を国家(国民)が殺すことというより、彼(彼女)の生/死を国家(国民)の掌中に完全に収めることに意味があるのではないか。死刑囚に限らず、拘置所や刑務所においては徹底的に自殺は抑圧される。だから、ベルトも盗られてしまうわけだ*1。素朴に考えれば、死刑囚の場合、どうせ最終的には殺すのだから、別に自殺してもいいじゃないか、処刑する手間も省けるじゃないかと思う。しかし、死刑囚の自殺は許されない。あくまでも、国家(国民)によって殺されること、国家(国民)によって生かされ続けることが重要だということになる。中国に執行猶予付きの死刑判決というのがあって、〈四人組〉、例えば江青も死刑判決を受けながら獄中で生涯を閉じたわけで、最初何か変だなと思っていたのだが、よく考えればこれは死刑制度の本質を示しているといえる。さて、現代の民主主義的権力(暴力)の特徴は何かといえば、再帰的であることである。とすれば、死刑囚以外の国民にとっての死刑執行の意義は、死刑囚の生/死を国家(国民)として玩びつつ、自らも死刑囚と同じ国家(国民)として、自らの生/死が(究極的には)国家(国民)の掌中にあるということを諦観することだろうか*2。死刑の執行というのは国民をそのような主体として調教する仕掛けということになる。

 以前、死刑囚を拘束することはおかしいと考えていた。社会契約論を持ち出せば、死刑判決というのは社会契約の破棄であり、その瞬間、死刑囚は獣としての自由を恢復するのではないか。だから、判決と同時に処刑が実行されるのでなければ、死刑制度は存立できないのではないか。しかし、上記のような主体として日々調教されているのであれば、この疑問は半ば消えてしまうことになる。家畜は野生動物にはなれないのであり、死刑囚は獣としてではなく、人間として殺されるのである(人道主義!)。
……
*1:Cf. http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070825/1188022106

*2:これは、安楽死や臓器移殖等々の生命倫理的問題に繋がっている。

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■ま、実際には、家畜も屠畜場では(あるいは、そこにひきたてられていくと、きづいたときには)必死の抵抗をこころみるという。■同様に、死刑執行直前に、死刑囚があばれて、修羅場になるというのは、ときどきおきていて、関係者をかなり消耗させるようだ。■だから、「家畜」ウンヌン、「諦観する主体」といったメタファー/図式化は、あまりに単純ともいえるだろう。
■しかし、国家が死刑囚をどうとらえているか、なにゆえ説教師をつけて改心させたうえで、やすらかに自死にむかうように処刑場にあゆんでいくことを理想視するかは、みごとにスケッチされている。■自殺されたりしてはこまるんだな。病死もホントはこまるんだろうけど、処刑されたんだかどうだか、関係者・マニアしかさだかでないような長期収容が常態化していることもふくめると、「みずからの意思で死をえらぶ」って、死刑制度の趣旨に反抗的な死刑囚さえでなければいいんだろう。
■刑務官経験者のような事情通以外が、処刑直前に「必死に抵抗する」(ま、表現的に自己矛盾してるけど)死刑囚の存在をひたかくしにする、って事情も、よくわかると。


【追記 22:44】
■教育刑的に妙に説教くさい理由も氷解した。■それは、宗教家などを動員して、あたかも「たましいの救済」みたいな風をよそおっているが、全然ちがう。「被害者と遺族のために、ひたすら謝罪し、罪をくいあらためる」ってのはタテマエで、第一義は、「国家が禁止している最高の規範を意識的にやぶった極悪人が、ついには国家に屈服して、『わるうございました』と、こうべをたれて、おとなしく死んでいった」という「予定調和的物語」におさめることなのだ。■だから、戦前の「幸徳事件」をはじめとして、現在も外患罪など、実際には被害者がひとりもいなくたって、死刑はおこわれうる。

■ともかく、「冤罪など絶対にありえない」と、死刑制度に100%の自信があるのなら、判決後即刻処刑するべきだろう。■説教師をつけて、死刑囚の心理がおちつくまで時間をおくとかいった偽善的な姿勢は、ゴマカシだ。
■被害者への供養と遺族への謝罪が目的なら、別の方法がありえるだろうし、すくなくとも、死刑囚が観念して処刑されるのをのぞむ遺族ばかりではなかろう。
■「社会復帰させるにしては危険すぎる」という教育刑の理念の否定が処刑にふくまれているなら、なおさら説教師の介在は矛盾する。■「社会復帰させるにしては危険すぎる」という教育刑の理念を否定するなら、終身刑でよいわけで、処刑しなければいけない根拠は消滅する。つまり、国家がどんな処刑の理想をもっていようと、内面の自由ゆえに、改心の証拠などそろえようがないし、改心させるだけの思想改造の体制をととのえられないとの断念があるからこそ処刑という結論をだすなら、おなじ論理で、「処刑せずに、一生ださない」という処分でどうしてわるいのか、説明がつかなくなる。
■これらの疑念にこたえられないのはなぜか? SUMITA氏があきらかにしたとおり、国家が生殺与奪の権を独占しているという確認装置として、死刑制度があるからだ。


●Wikipedia「死刑
●Wikipedia「終身刑
●Wikipedia「死刑存廃問題
●Wikipedia「死刑囚
●Wikipedia「冤罪
●Wikipedia「再審
●Wikipedia「日本における死刑
●Wikipedia「名張毒ぶどう酒事件
●Wikipedia「袴田事件
●Wikipedia「幸徳事件
●Wikipedia「アムネスティ・インターナショナル
●Wikipedia「菊田幸一
●Wikipedia「海渡雄一
●『死刑・犯罪文献を考察する』←すごい
●『死刑廃止と死刑存置の考察』←すごい

【日記内関連記事】
●「死刑制度について(その1)」「(その2)「(その3)」「(その4)」「(その5)」「(補足)」
●「とじこめる/みはる/ころす
●「更正も沈静ももたらさない司法
●「サディズムの発露としての死刑存続論
●「転載:中国各省におけるあまりに多すぎる死刑判決
●「オンフレ『〈反〉哲学教科書』
●「郷田マモラ「モリのアサガオ」
●「たまっていく死刑囚?