前便つづき。■『朝日新聞』朝刊社会面にのりながら、ウェブ上にのらなかった記事があがったので、それをはりつけおく。

ポツダム受諾の「聖断」直前、
東郷外相が原爆抗議を指示

2007年08月30日13時09分

 戦争の終結をめぐって話し合われた1945年8月9日の御前会議が始まったのとほぼ同じ時刻に、当時の東郷茂徳外相名で、原爆の投下について米国に抗議するよう指示する電報が打たれていたことが、外務省が公開した文書でわかった。御前会議は約2時間半で終わり、ポツダム宣言の受諾が決まった。現在までを通じて、これが原爆投下に対する唯一の抗議となった。



広島原爆投下後の主な流れ

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 公開された文書の中に「大至急」と書かれた1枚の公電がある。発信は45(昭和20)年8月9日午後11時55分。《6日、米国飛行機数機、広島市に来襲。新型爆弾を投下せる為、市民多数に死傷者を出し、家屋もまた大半倒壊または焼失せり。その被害の甚大なるは到底従来の爆弾に比較し得ざるものなり。よって帝国政府は別電のごとき抗議を米国政府に提出いたしたきにつき――》

 原爆投下について、スイス政府などを通じて抗議するように駐スイスの加瀬俊一公使へ指示する東郷外相の公電だった。

 じつは加瀬公使も、原爆に抗議すべきだと考えていた。すでに公開されている別の文書によると、8日午後10時半(日本時間9日午前5時半)、入れ違いで東郷外相にあてた至急電でこう述べている。《大々的にプレスキャンペーンを継続し、米国の非人道的残忍行為を暴露攻撃すること、緊急の必要なり……罪なき30万の市民の全部を挙げてこれを地獄に投ず。それは「ナチス」の残忍に数倍するものにして……》
 東郷外相は、原爆投下やソ連参戦を受け、戦争終結を急ぐべきだと考えていた。しかし「本土決戦論」などを唱える陸軍側との間で議論が紛糾。天皇の判断を仰ぐために御前会議が開かれたのが、9日午後11時50分ごろだった。

 御前会議さなかの10日午前1時には、東郷外相名で、加瀬公使あてに「別電」で《本件爆弾を使用せるは人類文化に対する新たな罪悪なり》と1029文字からなる抗議文が追加されている。

 御前会議は、昭和天皇の「外務大臣の意見に賛成である」という「聖断」が下り、午前2時半に終結。国体護持だけを条件にポツダム宣言を受諾することが決まった。


 戦後、政府は一度も原爆投下に抗議していない。今年7月に閣議決定された政府答弁書は「米国に抗議を行うよりも、核兵器が将来二度と使用されるようなことがないよう、現実的かつ着実な核軍縮努力を積み重ねていくことが重要である」と述べている。

 作家の保阪正康さんの話 まさに御前会議が始まるタイミングで打電していることは興味深い。原爆の影響を軽視しようとする陸軍に対して、東郷外相は、抗議したという既成事実をつくろうとしたのかもしれない。東郷外相は8日には、原爆について天皇に奏上している。抗議には天皇の意志が働いていた可能性もある。

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■?以前から指摘されてきたことではあるが、「国体護持」にこだわる首脳部のなかに相対的現実路線派(天皇の地位だけ死守)と「空気よめない」派(武装解除絶対反対論)とに、はげしく対立していて、現実問題、この両派の合意がとれないかぎり、終戦=ポツダム宣言受諾はありえなかったのだが、所詮は「天皇制護持(死刑免除はもちろん、その王統も保全)」という路線では、「おなじアナのムジナ」だった。■で、ヒロシマに原爆投下されても、抗議声明をどうするのかもふくめた会議がすぐさま召集されたわけではない。■情報収集に時間がかかったという いいわけが可能かもしれないが、要は「国体護持」っていう、連中の至上命題ありきで、被災地のことはもちろん、国民の最大多数の命運よりも、どう天皇をまもって終戦工作するかしかあたまにないし、それもグズグズしているという、まったくの無能ぶりが、浮上する。
■結局、ソ連の中立条約破棄=宣戦布告と二度め原爆という決定的な局面をむかえてはじめて、政府首脳部は本気で決断する会議をひらいたということ。この致命的おそさは、特筆すべきものだ。
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* ちなみに、7日には、「豊川海軍工廠空襲」という、死者およそ2500名という大被害をこうむることになる。

■?その意味では、アメリカが二種類の原爆の実戦による「実験」を想定していることをしっていたのかどうかはともかく、あまりにグズで、まぬけな「抗議声明」の決断といえるだろう。これが、当時の優秀な外交関係者だったというのだから、なさけない。■情報戦として、国際社会にうったえる覚悟と計算があったのなら、9日のナガサキ投下をためらわせるような国際世論をひきおこすような、大々的な声明を6日に即刻でしてしかるべきなのに。*

* もっとも かりに「計算」はしても、内密の「奏上」が8日までおくれていたいことをみれば、即応するための決断をためらわせる、軍部の抵抗などが予想されていたのであろう。

■?記事も着目しているように、東郷らは、閣議・「御前会議」などの最高決定機関の判断を無視した独断専行で、「既成事実」づくりの画策をはかっていたことになる(「御前会議」開始直後の「大至急」電報と、会議中の「追加発信」。そしてなにより、8日の「奏上」)。■しかし、加瀬公使の至急電報が東郷らにとどいたのは10日よるという、無意味なおそさをしめしているし(理由はわからない)、東郷からの電報がかさねられたあと、「ポツダム宣言受諾の緊急電」が発信されるという、後手後手がみてとれる。
■「ポツダム宣言受諾」と「抗議」は別に矛盾するわけではないが、ボクシングでいえば、「TKOまけ」をみとめるタオルをなげいれるセコンドが、同時に勝者のルール違反をレフリーにいいたてるという、実にまぬけな構図であることはいなめず、観客は苦笑するしかなかっただろうこともたしか。■国内外の諸情勢からしかたがなかった要因はいろいろあるだろうが、「情報戦」という次元では、ほとんど無意味な策動だったということができる。
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* 「瀬戸際外交」を苦笑されている「北朝鮮」の動向は、これら無能な日本外交を「反面教師」として、充分参考にしたうえでの、計算されつくされた選択だという、皮肉な事実もうかびあがってくるだろう。


■?時代がかわって、「今年7月に閣議決定された政府答弁書は「米国に抗議を行うよりも、核兵器が将来二度と使用されるようなことがないよう、現実的かつ着実な核軍縮努力を積み重ねていくことが重要である」と述べている」という、おまぬけな構図は、敗戦のトラウマが、屈服状態を全然克服できずに60年以上つづいているという、異様な自体を象徴している。■いまさら「抗議」などしたとことで、ぶざまな言動であることは、あきらか。要は、「歴史のみなおし」作業のなかで、「やはり、あの作戦はどうみても戦争犯罪だったという事実は明白なので、謝罪を要求する」という主張をする気があるかどうか? 「米国に抗議を行うよりも、核兵器が将来二度と使用されるようなことがないよう、現実的かつ着実な核軍縮努力を積み重ねていくことが重要である」なんて回答は、「アメリカにはなにもいえません」という外務省ほかの屈辱的な姿勢を再確認しただけ。■ヒロシマ・ナガサキなどの被爆地に政治的配慮をしただけの、優等生的な反核メッセージは、所詮は、米国主導の核拡散防止戦略の「後方支援」」でしかないことが浮上するという、あまりに国辱的で、かつ苦笑しかまねかないだろう論理。
■「美しい国」を標榜しながら、これら肝心な「戦争犯罪」問題に対して、米国には慰安婦問題で「説教」までされ、くるしい「いいわけ」に終始し、全然「美しい国へ」移行できそうにないが、なにより、「アジア諸地域には形式的にあやまっておけばいいや」という、「なげやり」「およびごし」の姿勢と、「アメリカの外交姿勢・軍略を批判するような言動など、いっさいできない」という「かなしばり」状態が、一層「美しくない国ニホン」をきわだたせている。■しかも、そういった「醜悪で不様なニホン」を象徴しているのが、「アジアには過剰に強硬姿勢で、アジアでは不気味なよわごし」というタカ派たちの「二重の基準」。
■?『朝日』など、各媒体は、このての情報をながすときに、「聖断」や「御前会議」の決定力を強調する機能をはたしているが、どのぐらいまで、その政治性を自覚しているのか? ■はっきりいって、このての記述で、「決定打は やはり聖断」といった印象を再確認するかぎり、極東軍事裁判での昭和天皇ヒロヒトの免責は、完全に「政治とりひき」の産物でしかなかったこと、「軍部には直言できるようなふんいきではなかった」と、再三強調されてきた見解がウソくさい印象がつよまる。■要は「日中戦争当時から、ヒロヒトが『そんなことは、みとめられない』とつっぱれねれば、軍部は暴走できなかった」とね。■「広島市民に対しては気の毒であるが、やむを得ないこと」など、無責任発言をくちばしったヒロヒトだが、「天皇メッセージ」をふくめ
て、当時の天皇を「気の毒」がるのは、完全にまちがいであり、むしろ悪質な印象操作の産物でしかない。


■余談ながら、?東郷は、鹿児島県の苗代川で「陶工・朴寿勝の長男「朴茂?」として生まれる」という特殊な出自をかかえており、司馬遼太郎の「故郷忘じがたく候」と通底する背景がある。
■?また東郷は、太平洋戦争回避工作に尽力しながらも、戦争責任をきびしくとわれ獄死した。■むすめむこはともかく、孫たちが「不肖」としかいいようのない人物たちであるのもふくめて、さぞや無念だろう。
■?「加瀬俊一 (1920年入省)」=「しゅんいち」と、「加瀬俊一 (1925年入省)」=「としか
ず」とは、別人でまぎらわしい。■特に後者は、なうての右派だったわけで、むすこともども、こまったさんである。


●「原爆投下、市民殺りくが目的 米学者、極秘文書で確認」(朝日新聞1983年8月6日)
●「極秘文書発見 原爆を語るキーワード」『自由主義史観研究会
「天皇メッセージ」一次資料画像ほか
●「トラックバック・ピープル 安倍晋三