■これは もはや「スポーツ現象」に分類するというより、「国家/ナショナリズム論」ないし「国際政治」かもしれないが、とりあえず「「本家」意識がぬけない日本柔道界」「「本家」意識がぬけない日本柔道界2」の続編で、「スポーツからみた日本社会」シリーズの一環の一編として。■けさの『朝日』の社説から。

理事落選―JUDOの家元をめざせ

 柔道は、とっくに「JUDO」になっていた。国際柔道連盟の理事選挙で、再選をめざす山下泰裕氏が敗れたことは、そんな現実を改めて突きつけた。

 山下氏は84年のロサンゼルス五輪の金メダリストだ。その山下氏が教育・コーチング理事の選挙で、アルジェリア人の対立候補に61対123の大差で負けた。この時点で、52年に加盟して以来、初めて執行部から日本人の姿が消えた。

 その翌日、マリアス・ビゼール新会長は定数11の理事会に会長枠として8人の増員を発表し、その1人に上村春樹全日本柔道連盟専務理事を指名した。しかし、日本の訴えが届かなかったという結果は残った。

 このことをどう考えればいいのか。

 振り返れば、柔道界の先人は、柔道の魅力を広く伝えたいと考えた。その魅力とは、格闘技の面白さと精神性を融合したものだろう。海を渡り、言葉の壁を乗り越え、種を世界にまいてきた。その結果が、いまや200に迫る国際柔道連盟の加盟国・地域の数である。

 日本生まれのスポーツとはいえ、これだけ世界に広まれば、性格が変わるのもやむをえまい。山下氏の活動が否定されたとは思わないが、伝統や精神性にこだわるかたくなな日本の姿勢が、選挙結果につながった面は否めない。

 ここは、「家元」の権威がまた失墜したと嘆くよりも、新たにJUDOの「家元」をめざした方がよくないか。
 ビゼール新会長は、世界選手権を隔年から毎年に変えるとともに、選手のランキング制を導入し、世界各地で賞金大会を開いていく構想を発表した。

 日本では、そんなに国際大会が増えてはたまらない、と反発がある。青色以外にも様々なカラー柔道着が出てくるのではないか、という警戒感もある。新会長は否定したが、「一本」「技あり」といった言葉がなくなる不安も消えない。

 しかし、柔道の伝統にそぐわないといって反対するだけでは、通るまい。

 欧米では遊びの中からスポーツが発展した。そこでは競技の公平性を保ち、面白くするために、ルールを変えたり、新しく作ったりするのは自然なことだ。

 選手を支える環境も違う。企業や大学が面倒を見る日本と異なり、欧州の選手はクラブが中心だ。費用をひねりだすには大会を増やし、テレビの放映権料を当てにせざるをえない。こうした歴史や背景を理解した上で、JUDOを発展させるための対案を示すことが大事だ。

 これを担う人材の育成にも取り組みたい。「山下頼み」で相変わらずの「体育会」体質では、それはおぼつかない。

 ビゼール氏はルーマニアで生まれ、選手経験は少年時代だけだ。亡命先のオーストリアで実業家として成功し、柔道界で力を振るってきた。スポーツ界で欧州の小国出身のリーダーは珍しくない。

 知的な国際感覚と経営の手腕。それが日本のスポーツ界にも求められる。

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■きのう日本の柔道界の潮流を推測した分析記事でとりあげた論点で、すべて整理がついているとおもうので、あとは蛇足になりかねないが、数点。

■①「様々なカラー柔道着が出てくるのではないか、という警戒感…「一本」「技あり」といった言葉がなくなる不安」が「柔道の伝統」といった、たかだか1世紀程度のローカルな「継承」でしかない歴史的経緯を無視してもちだされているのは、不勉強ないし欺瞞的な業界、あるいは にわかナショナリスト・伝統主義者だろう大衆への「配慮」か? いつも偽善的な正論をぶって、ブランドを維持してきた「伝統」をちゃんとまもらないと。

■②「いまや200に迫る国際柔道連盟の加盟国・地域の数…日本生まれのスポーツとはいえ、これだけ世界に広まれば、性格が変わるのもやむをえまい」といった、消極的・保守的な見解は、「欧米では遊びの中からスポーツが発展した。そこでは競技の公平性を保ち、面白くするために、ルールを変えたり、新しく作ったりするのは自然なことだ」といった歴史的経緯との共存指向と矛盾する。■大体、日本列島に継承されてきた勝負事(相撲・囲碁・将棋等)とて、業界ごとのルール改訂はおこなわれてきたわけだし、特に近代以降、「制度化」「規約の整備」といったかたちですすんだことには、かわりがない。■つまりは、マックス・ヴェーバーが強調した、近代における「合理化」の一種としての「近代スポーツ」の制度化・世界化の一種として、柔術→柔道→‘Judo’という現象があるわけだ。■それは、「のぞましくはないが、いたしかたない(さけられない)変動」でなどなく、それぞれの社会現象が、ある種必然性をおびて自己展開していく過程の産物であって、「競技柔道は例外的にそこからのがれられる」といった発想自体が誇大妄想的なのだ。
■そうであれば、かりに「伝統や精神性にこだわるかたくなな日本の姿勢が、選挙結果につながった面」がみられるとしたら、単に時代錯誤的に無意味な抵抗をこころみ、それを「伝統や精神性」の死守といった、自慰的・独善的な自己陶酔でとどまっていたのを、ようやく「商業主義」の野心家の策動という「荒療治」によって、引導をわたされたといえるだろう。■つまりは、日本柔道界の上層部にとって、自己欺瞞としかいいようのない「伝統」「精神性」死守路線(なぜなら、「業界」支配のうまみをちゃんとすっている集団がいるはずだからね)が、「外圧」によって正常化し、「バリアフリー」なスポーツへと一歩あゆみだしたというべきなのだ。

■③「「山下頼み」で相変わらずの「体育会」体質」というのは、意味不明。なにかいいたいのなら、具体的に批判・提言しよう。

■④「JUDOを発展させるための対案」をだせる「知的な国際感覚と経営の手腕」が不足しているから、「スポーツ界で欧州の小国出身のリーダーは珍しくない」という事例にまなぼうというのが、『朝日』の論説委員の先生の主張らしい。■ではとおう。競技柔道の世界化としての‘JUDO’を発展させる意義はなんだ? 日本列島発信の技法・精神文化がすばらしいから、それを普及させることは、問題なくただしい、ってか? ■2年もまえの記事だが「スポーツからみた日本社会11」でとりあげたのは、柔道など 武道につきまとう暴力性だった。公言されることは、あまりないが、柔道などの練習にまとわりつく、イジメ・セクハラなど物理的暴力は、関係者の一部はちゃんと認識している。そして、それは、暴力事件としてスキャンダル化しない膨大な「氷山の水面下部分」が潜在しているだろうこともね。■級友を登校拒否においこむほど乱暴者だった山下少年が、立派な紳士へと変貌をとげたのが、たかい精神性を継承しつづけた柔道のおかげ、といった陳腐な合理化は、やめてほしい。

■⑤「「家元」の権威がまた失墜したと嘆くよりも、新たにJUDOの「家元」をめざした方がよくないか」って提案は、まったく意味不明。■技法・理念・精神性などが、誤解されないように発信したあとは、受容者がどう解釈・展開していくかを支配できない。むしろ、遺伝子情報が交雑とミス・コピーによって ゆたかに自己展開していく「宿命」があるのであって、いまさら「家元」意識にしがみつくなって、ふるくさい著作権意識みたいなものにすぎまい。■そんなに支配意識をたもちつづける集団なんか、あいてにされなくなるって…。




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