■完全に身体化した 言語コードではないのに、いろいろな理由から「せのび」をすると、かならず ホコロビ・自己矛盾が ふきだすってのは、ある意味普遍的な現象だろう。■たとえば、日本語をローマ字表記するときの、ヘボン式と訓令式の混用問題など、いくつもの現象をとりあげてきた。
■今回のデータは、旧かな運動の実践例から。

クラシックギターを調律したり、彈いたりしつゝ、ギターの事を調べていたら、どうも私の使つてゐるギターは旧過ぎるのではないかと。すぐに調律が狂ふし。あー、既に購入してから三十年、少なくとも二十年以上經つてゐるギターだから云々。
この前見つけた一万円のエレクトリックギターでも購入しようかな、それよりもフォーク・ギターが欲しいんですが、何か良いのないかな。
クラシックギターを調律したり、彈いたりしつゝ、ギターの事を調べていたら、どうも私の使つてゐるギターは旧過ぎるのではないかと。すぐに調律が狂ふし。あー、既に購入してから三十年、少なくとも二十年以上經つてゐるギターだから云々。
この前見つけた一万円のエレクトリックギターでも購入しようかな、それよりもフォーク・ギターが欲しいんですが、何か良いのないかな。



■「いたら→ゐたら」「あー→ああ」「しよう→しやう」だとおもう。



■以前も指摘したとおり、別に身体動作の経済原則による省力化ではなくて、われわれの大半は、「ち」「し」などを入力したいとき、「chi」「shi」ではなく、「ti」「si」という打鍵をくりかえしているはずだ。ヘボン式を無自覚に、あるいは自覚的にえらんでいる層でもね。■なぜかといえば、われわれの大半にとっての50音体系が、「た/てぃ/とぅ/て/と」と「ちゃ/ち/ちゅ/ちぇ/ちょ」、「さ/すぃ/す/せ/そ」「しゃ/し/しゅ/しぇ/しょ」とという2系統(ほんとは、前者は「つぁ/つぃ/つ/つぇ/つぉ」もあって3系統)として知覚されていないからだ。■ヘボン式で、自覚的・無自覚的に英米語にすりよったって、身体化した50音図は、そんなに簡単にくみかわらない。打鍵は、正直だ。


■おなじように、旧かな実践者のこのかたの ユレというか、非一貫性も、いっちゃわるいが、日常的に旧かなでとおせているわけではないってことの必然的な結果だとおもう。■つまり、かなりムリして 実践運動しているんじゃないかとね。
■もちろん、世の中のほとんどが旧かなを排除した空間であるがゆえに、四六時中旧かな実践運動は、不可能にちかいだろう。それこそ、「ヘンなヤツ」って 白眼視されそうだから。■しかし、この運動家のかただって、私的な手帳とかメモがきとか、そういった日常で旧かなで一貫させる時空が維持されていれば、こういった破綻はおこさないとおもうんだよね。

■ま、でも、そういった「練習」「日常化」といった ある種の「努力」「せのび」をしなければいけないところに、身体性としての「ムリ」が感じとれる。■ひごろ ききわけたりしていないはずの「L/R」「B/V」を区別しようといった「せのび」が しばしば破綻して、「ライト」「ライス」「デビュー」などのカタカナがきをローマ字化するときに、こんがらかってしまうのとおなじようにね(笑)。■日常的な身体運動として心身に「血肉化」しているかどうか? これは、決定的な問題だとおもう、