■文化化される以前の乳児(1歳未満)の生態は、個体差(個々人の独自性=個性)のバラつきは ちいさくないだろうが、行動様式に共通点があるとしたら、それは生物学的なプログラミングの産物だろう。
■まぢかなところで はいずりまわっていた乳児数人の行動様式を、多分に回想的だが、列挙してみる。


■①「いかり」をこめて なきわめく。
■乳児が空腹をしらせたりするときの、なきわめきかたは、よく かんがえるとハイリスク行動といえなくもない。なぜなら、なきくたびれて ねむりこんでしまうまで 「いかって」いるとしかおもえない はげしさ(エネルギー)を発散しつづけるのは、あきらかに体力の消耗をともなっているとおもわれるからだ。■たぶん、これは、年生存戦略として、長者に育児行動をせかすための「ハイリスク・ハイリターン」行動なのだとおもわれる。■つまり、なきわめくことで 体力を消耗し、たとえば空腹時なら一層衰弱しかねない危険をおかしながら、年長者に精神的圧迫感をあたえ、副産物として 全身運動をおこなうことで、筋肉強化をはかるといった。■これは、育児ノイローゼで 虐待したり、無理心中事件にいたるような 悲惨な末路をリスクとしてかかえたうえでも、なお 圧倒的多数のばあいは「おおきな みかえり」がみこめるという、まさに淘汰圧の産物なのだろう。
■②なさけない表情で、気をひこうとする(≒「こびる」)。
■あわれをもよおす「なさけない表情」。それに付随する「はなにかかった」あまえた こえは、まさに「可憐(あわれむべし)」という、年長者の感情をかきたてる生得的な行動様式だろう。■「いかり」をこめて なきわめく段階にいたる直前は、ないてはいないのだが、いまにもなきそうな、半べそ・半苦笑といった、実に複雑な表情をみせる。これらが、学習によって後天的にうみだされたものとは到底おもえない。■ダーウィンたちが めざとく発見したとおり、すくなくとも ほ乳類には、「表情の進化」的な要素があきらかにみてとれるが、すくなくとも乳児の表情は、周囲の年長者の文化的行動のコピーではなく、あらかじめインプットされた行動様式の一種だろう。■そして、われわれ年長者も、それへの半本能的な反応をかえすようプログラミングされているとかんがえられる。■ま、それでも育児行動が生得的にくみこまれていない われわれ ヒトは、そのあまりにも おもたい育児負担にくたびれはて、「たたきつけたい」「ほうりだしたい」といった激情にかられるし、その一部は実際たえきれずに、それを実行してしまうのだけれども。
■ちなみに、これに付随する「はなにかかった」あまえた こえは、フロイトらが、「肛門期」「性器期」などとモデル化したのにもみられるように、生殖器周辺の性感帯と直結した生得的行動のようにおもえる。■もちろん、これは乳児期にかぎらず、成人の性感・情動とも通底するだろうが(ポルノグラフィなどは、この点を充分意識して不可欠の装置としているとおもわれる)。

■③たってだくと、やすらぐ。
■実にフシギなことだが、乳児は 睡魔におそわれて 半分意識がとおくなっているような状況でも、年長者が たってだいているか、すわってだいているか、ねかそうとおろしかけているか、非常に敏感に感じとって、識別・反応する。■後者ほど、「いかり」をこめて なきわめくというかたちで、必死に「抗議」してみせる(笑)。
■これは、一見実にフシギな現象である。なぜなら、「年長者が たってだいているか、すわってだいているか」は、過敏な重力センサーなどでもないかぎり、感知できないはずだからだ。■しかし じっくりかんがえてみると、実はかなり当然の反応で、生存戦略上実に理にかなっている行動様式なのだとわかる。
■要は、乳児はあまりに無力でたよりないがゆえに、地上に報知されることが、死ととなりあわせなのである。■だから、完全にねむりこんで反応できなくなるまでは、「放置するな」というメッセージを年長者におくりつづけているのだと解釈できる。■そうかんがえると、実は「年長者が たってだいているか、すわってだいているか」も、乳児にとっては「死活問題」につながりかねない生存戦略上決定的に重要な差異なのである。■なぜなら、「すわってだいている」年長者は、そのつぎの段階で、したにねかせてしまう可能性がたかいからだ。それは「放置」の前段階行動というシグナルなのだ。で、実際、たってだきながら あやしつづけた年長者が、なきやんだ乳児がねむりこんだと判断したときに、つぎにうつす行動は、すわって、ゆかにねかせる。そして、ねむっていることをいいことに、その場を一時的に はなれる。という行動なのだ。
■そして、実は、「たってだいている」と「すわってだいている」は、微妙に 身体接触の面積や圧迫感がちがうし、「すわってだいている」体勢から「ねかそうとおろしかけている」→「完全におろしてしまう」という移行過程は、やはり身体接触が劇的に変動するのだ。■たぶん、乳児は、この ふとももなど、両うでと むね・はらなど以外の部分を感じとる時点で危機感をおぼえ、つぎに 今度は それら全身的な接触状況から 一転して身体接触の面積・圧迫感が激減し、ついには、ゆか ないし地面などとの接触だけにかぎられる(=自分の全身だけが、全体重をささえる物理的実体へと変化する)ことを、「死活問題」として、反応している。
■そして、これは①であげた「なきわめく」行動とせなかあわせだろうとおもわれる。■はっきりいって、だきあげ維持しつづけることは、負担をしいられるわけで、心身ともにくたびれている保育者にとっては、育児放棄につながりかねないハイリスク構造にある。■しかし、①同様、生存戦略上、年長者に育児行動をせかすための 「ハイリスク・ハイリターン」行動なのだろう。つまり「なきわめくのをやめさせるためには、たってだきつづけることが もっとも簡便だ」という学習を年長者にさせる戦略は、そういった合理的行動と規範意識を強化する。そして、それが育児行動を安定化させる確率と、その負担にたえきれずに育児放棄にはしってしまう確率とを比較したばあい、前者があきらかにおおきいことが、歴史的・動物行動学的に立証されてきたと。


■④たたく・つかむ・ひっぱる・かむ・なめる。
■経験・認識能力が決定的に不足している乳児にとっては、視界にはいった(盲児のばあいは、たまたま さわった)物理的実体を、ともかく「理解」し経験を蓄積するほかない。■その際、たってあるくころには総動員される「手」の運動機能・感覚機能を準備することもかねて、「実体験」する行動様式なのであろう。■しかし、これも 冷静にかんがえれば 非常に「ハイリスク行動」であるといえそうだ。
■たとえば、前近代の育児環境で、かなりの滅菌状態などは、全然期待できないだろう。現在では、感染症予防のために、母親の乳首をアルコールなどで滅菌するとか、哺乳ビンを熱湯(蒸気)消毒するといった作業をきまじめにおこなっているが、前近代の保育環境でそんなものがありえたはずがない。滅菌用アルコールなんぞありえないし、みずをくみ、おゆをわかすという行為そのものが、ひとしごとだった前近代にあって、授乳ごとに、滅菌の「おまじない」など、やれるはずがない。■ましてや、乳児が、つぎにのべるような「ハイハイ」をはじめたときに、さかんにくりかえす「かむ」「なめる」という行動は、雑菌はもちろんのこと、かなりの病原菌をくちにいれることを意味する。■もともと、子宮内は無菌状態なのが、産道=膣内をおりていくときに雑菌とであい、誕生後は、大腸菌ほかさまざまな細菌・ウィルス等を 体内にとりこんでいくというはなしだが、乳児のさかんにくりかえす「かむ」「なめる」という行動は、散歩にでたイヌたちのように、かなり胃酸がつよくて殺菌能力がないかぎり、すぐさま感染症が発症して死にいたるというリスクとせなかあわせなのだ。■逆にいえば、神経症的に室内の掃除をくりかえさないと 気がすまない主婦のような家庭環境にそだっているだろう、ほとんどの乳児は、かなり頑丈にできているともいえる(笑)。


■⑤爬虫類 トカゲ のように「匍匐(ほふく)前進」する。
■乳児期の後半は、いわゆる「ハイハイ」(はいまわる行動)が主流になり、全身運動によって腕力と脚力、背筋・腹筋などを強化することで、たちあるき段階の準備をしているとかんがえられる。■しかし、興味ぶかいのは、その様相が、どうみても「爬虫類」的であることだ。たとえていうなら、イグアナっぽいのである(笑)。■上半身をおこして おもに前肢をつかって駆動し、下半身がひきずられるようなかたちで、地面・床と接触・摩擦状態で前進するという構造は、まさに 大型のトカゲとしかみえない。
■銃弾をあびないよう、地面からうきあがった体表面積を最小限にしようとする軍人たちの匍匐前進とそっくりなのは、当然だろう。
■もちろん、これは下半身の筋力と平衡感覚が充分でない段階で、リスクをおさえるためにさけられない様態=段階なのだろう。


■⑥ともかく、虚空や地面(床)をける。
■これはよくわからない行動だが、かなりはげしくおこなう。両腕に障碍がないかぎり、足の指が 手のように機能する方向では発達がおきないこと、つまりは、四肢の前後であきらかな分業がはじまっていることは乳児でもはっきりしている。■そのなかでも、目標物に対する指向性があきらかな手の行動とはちがって、足の運動は、どうみても目標物が特定されず、虚空をけるか、地面・床をけるか(「かかとおとし」というか、プロレスラーがフォールをのがれるときの下半身のうごきににてもいる)、


■⑦たかい視角をえようと、そり、つかまりだちしようとする。たかい位置にあるモノをとろうと「せのび」する。
■「たってあるく」というのは、インドで発見された姉妹(アマラとカマラ)などの事例をみても、生得的な行動様式ではないかもしれない。■しかし、障碍がないかぎり、乳児はたとうと「努力」している。一心にはげんでいる、たちあがろうとしているとしかおもえない。■で、これは、「たかい視角をえて、よりおおきな視野をてにいれたい」という本能的欲求、ないしは、年長者のコピーをしたいという「上昇意識」が作用しているとおもわれる。
■たぶん、だきあげられたときに、「はいまわっている自分が確保できない ひろい視野を年長者がえている」=「うらやましい」という直感=欲望がかきたてられているのだろう。■「とおく・ひろく みとおしたい」という あくなき欲求が、「たちあがりたい」という必死の行動につながるのだとおもわれる。
■そうかんがえれば、「たかいたかい」だけでなく、立位でだきあげられた状態のときに、なんともいえない上機嫌になる様子と、懸命な「たつ意欲」が整合的に説明づけられるだろう。
■もちろん、たかい位置にあるモノへの好奇心も おおきな動因だ。あくなき向上心の基盤にして起源は、ここに準備されているだろう。「まえむき」と「向上」というのが、正面ななめ上方にあるという身体論的意味はちいさくない。


■ほかにも、まだまだ いろいろありそうな予感はあるが、おもいだせるのは、この程度だ。




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