■いわゆる「平和省」構想というのは、一部でだいぶもりあがっているようである。■しかし、直感的に、ハラナなど ヘソまがりは、ジョージ・オーウェル『1984年』の重要な舞台装置である「ニュースピーク」の「B語彙群」の典型例「Minipax」(「平和省」、軍事と戦争をつかさどる省庁)などを想起してしまう。
■で、これは、単なる文学趣味における 冗談っぽいツッコミではない。■たとえば、現実に防衛省昇格の際には「2005年末に防衛庁の「防衛省」移行が政治日程に上った際に、連立与党の公明党の中からは、「防衛省」という名称の軍事色を薄めるために「防衛国際平和省」や「防衛国際貢献省」という名称を推す意見もあった」ようで、公明党幹部の主観的意識はともかくとして、「Minipax」っぽい名称として実現した可能性が充分あるわけだ。

■とおもっていたらだね。ものすごい痛烈な批判がすでかかれているわけ。ハラナと同様な懸念を、残酷なぐらい皮肉っぽい筆致でね。

「平和省」の利用価値
一部、ボンヤリ頭の皆様の発想されたる「平和省構想」にちょっとコメント。「平和省」の実現性は大いにあります。政権・政府にとっての「平和省」のメリットは:

(1)防衛庁の防衛省昇格ならびに自衛隊の軍への昇格ならびに憲法9条改正と抱き合わせにする。
(2)防衛省から関連企業へ天下りする前のワンクッションとする。
(3)平和のための良い戦争に権威を与える。
(4)「人間の安全保障」、「基本的人権」の無制限の拡大解釈に枠を与える。
(5)平和の内容の科学的かつ厳密な「研究」を通じて「地球平和公共の平和基準」を策定し、個人尊重主義に陥りがちの平和要求を規制する。いわゆる公共の福利に反しない範囲を明確詳細に規定する。
(6)平和統計調査を実施し、平和進展度指数(PAQ = Peace Advance Quotient)の公表により国民に安心感を与える(小泉内閣の経済統計手法を参考に)。
(7)防衛省と連携して平和に関する情報を統制し国民の過度・無制限の反戦平和要求を抑制する。
(8)反戦平和団体を統制・監督・指導する(登録制)。国民の登録反戦平和団体への加入を促進し反戦平和の要求を全国民的な翼賛体制のもとに統一する。
(8)あたりは、協力したい団体がすでにあるのではありませんか? 車の装備品について言えば、故障を避ける観点からは、必要不可欠でないなら(*)その装備品の性能よりも、それが無いことの方がメリットの大きいことは誰でも知っています。ないものは壊れない。無い役所は悪さをしない。

* 補足(2006/07/30)

(2006/05/22)

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■善意で、「平和省」構想にくわわっている層は、こんなチャチャをきかされたら、血圧があがりそうだよね。■でも、こういった冷酷ともみえる懸念は、無意味でないとおもう。
■だって、アメリカだって日本だって、政府は国際平和をかたり、その手段として軍事力は不可欠だって主張してきたわけだ。つまり、オーウェルの皮肉は、単なる文学的なあてこすりなんかじゃなくて、政治権力がわの公式見解そのものなんだよ。■商業資本が、利用者の福利厚生・幸福のために商品を提供しているといいはり、宗教組織が信者の心身の平安のために教義を整備してきたとかたってきたようにね。

■おおまじめに提言しておく。出発点が政治権力と無関係な市民の創意・自発的運動にあったとはいえ、それを政治権力が利用しないという保証などどこにもない。むしろ、からめとろうと策動しない方が不自然だ。■というか、政府組織のひとつとしての「省」を想定している時点で、ものすごい楽観主義っていうか、政治権力=性悪説(だから、法治国家で、かつ民主制でないと、必要悪の限度をこえてしまう)という、近代史のにがい経験知をかなぐりすててしまっている発想は、どこからでてくるんだろう。
■これらの動向は、現代国家=福祉国家だっていう楽観論とつながっているんだろうけど、引用した文章のように、「国家権力は腐敗(暴走)する」って経験知にもとづく性悪説見地からしたら、でて当然の慎重論=警戒感だ。


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