■まったく不可解なのだが、ぞっとするような ひややかな視線で周囲を「みおろしている」ひとびとがいる。はっきりいって、そういった ぞっとするような ひややかな視線で周囲を「みおろしてせる」根拠が、周囲には理解できない。そこまで、ひややかに周囲を「みおろせる」ということは、さぞや自分たちが高貴であるか、逆に、ひかえめの基準にさえ全然到達できない周囲の卑小さが歴然としているということなのだろうけど、やっぱり解せない。■なぜなら、かれら/かのじょらは、たしかに有能かもしれないが、だれもがみとめるような卓越した能力、たぐいまれな特技、みんながみとめるような家系ほか高貴さ、などをもちあわせているようにはおもえないからだ。■かれら/かのじょらが、なにゆえ そこまで自尊心がたかいのか、全然わからない。でも、かれら/かのじょらにとっては ゆるぎない卓越性、ないしは、周囲の「たえがたない卑小さ」が自明なのだろう。
■かれら/かのじょらが、自分の内面でかってに自尊心を維持するのは一向にかまわない。というか、思想信条の自由・内面の自由だ。■しかし、せめては周囲に軽侮の感情がモレないように努力してほしいと、おもう。というか、どんなに周囲が いやしいものにうつろうと、明白でおおくの合意がえられるような 不当性でもみあたらないかぎり、軽侮・侮蔑は、権利でなどない。それを、無遠慮に表出するのは、単なる差別にすぎない。
■いや もっとはっきりいうなら、自分という存在の「高貴」さはともかく、それと相対的に低位にあると位置づけられる周囲の「卑小」さとは、はたして客観的かという問題がのこる。■すくなくとも、ハラナの実体験として、そういった周囲をみくだす層の、「高慢」ともいえる自尊心の、客観的根拠を確認できたことがない。

■要は、かれら/かのじょらが たのむ自尊心の根拠が、絶対的・客観的なものなのか、相対的・主観的なものなのか、なのだとおもう。■もちろん、卑小さを自覚しているハラナのような存在にとっては、理解力の範囲をこえた高貴さがあるのかもしれない。しかし、すくなくとも マザー・テレサのような人物が、悪意をもって活動を阻止するような集団以外を、軽侮することはなかったのではないだろうか? ■つまり、ハラナのように卑小な存在であっても、「絶対的に高貴な人物は、周囲を軽侮するような、有害無益な感情をもちあわせない」だろうと、おもいいたる。逆にいえば、「相対的に自身が高貴であると主観的にとらえる人物は、周囲を軽侮することによって、自身の相対的高貴さを確認する必要性をかかえている」とうたがってしまう。■これは、「げすの勘ぐり」か?


■「わたしは、バカにされるような存在ではない」という自尊心は、とても大切。■しかし、「わたしは、周囲の相対的『バカ』にと比較されるような存在ではない」といった特権意識をもつとしたら、単なるカンちがいなのではないか? 実際「比較」にあたいしないような隔絶した質的断絶であるというより、そう主観的に信じているだけなんじゃないか? ■「比較」にあたいしないような隔絶した質的断絶であるという確信をもてるような、確固たる根拠などないからこそ、防衛機制的に、懸命に差異を強調する必要性があるのではないか?

■以前「「宣伝」の詐欺性、「謙遜」の偽善性 2」という文章で、「みのるほど、こうべをたれる いなほかな(実るほど、頭を垂れる稲穂かな)」といった「美学」は、くわせものだ、といった皮肉な文章をあえてかいた。■しかし、現実の人間社会のなかで、そういった「偽善性」をとやかくいうのは、おかどちがいかという気もする。■なぜなら、そういった謙虚さを自分自身へのきびしさ、周囲への配慮ゆえにつよめていくといった、マゾヒスティックというべき姿勢は、うえにあげたような自尊心バリバリな層とくらべらば、それこそ、質的に断絶をたもった高貴さといえるとおもう。

■重要なのは、相対的優劣という問題が、両者では正反対にあてはまるという点。■なぜなら、みずからを高貴と任ずる層は、所詮相対的に優位である(しかも主観的次元で)程度しか「優位」にないのに、みずからをくさすマゾヒスティックな人士は、主観的に妄想的な水準で自分たちをいじめぬき、「全然ダメだ」という自己像におちついてしまっているからだ。■もちろん後者は、かれら/かのじょらが暗黙のうちに黙殺している平均的大衆の軽侮をかかえこんでいるという、無自覚な差別意識を指摘できる。しかし、平均的大衆のよんどころない背景への無理解をおくなら、プロスポーツ選手のような 高水準志向ゆえのマゾヒズム・サディズムなのである。■周囲との相対的優位というが、客観的にそうなのか微妙な一大衆のひとりにすぎない人物の、根拠薄弱な自尊心は、はっきりいって おさむいかぎり。孤高の差別主義者の「ツメのアカ」を煎じてのむべき水準だという自覚がないようだ。

■整理するなら、①相対的優劣など全然気にならない超越的な存在 >> ②相対的優劣が眼中にない、暗黙の大衆蔑視的エリート主義 >> ③みずからの相対的優位が内心うれしくてしかたがないが、同時に「その優劣が質的断絶ではない」という本質=事実に、自己欺瞞的に おびえているがゆえに 相対的差異を必死に強調しようとする層、という、質的断絶が確認できるだろう。■それは、量的な連続的差異ではない。決定的な質的断絶である。おそらく、そういった絶望的な質的差異が うすうすわかっているがゆえに、低劣な層ほど、相対的優位に自尊心の根拠をもとめという、悪循環におちいるのだろう。