■先日、奇妙なぐらいミャンマー(ビルマ)情勢をとりあげるメディアがふえたので、沖縄のことをちゃんとかんがえたらと、イヤ味をいっておいたが、ミャンマー情勢がどうでもいいわけではない。■しかし、問題の浮上が日本人ジャーナリストが射殺されるという事件ぬきで、ここまで注目があつまったか? そういった日本人の意識・姿勢が大問題なのだ。
■インターネット新聞『JANJAN』から。


ビルマ(ミャンマー)民主化
:NGO・国連へ人権監視団派遣など要請
2007/10/02

 ビルマ(ミャンマー)の僧侶らによる民主化デモに対する軍事政府の武力的鎮圧等の対応について、在日ビルマ人の難民申請等の支援にあたってきた在日ビルマ人難民申請弁護団(団長・伊藤和夫)などは1日、東京都内で会見をひらき、日本政府と国際社会の迅速な対応をもとめた。
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NHKニュース(9月27日)より撮影(編集部
 会見の同日、同弁護団は日本の法務省宛てに、(1)在日ビルマ人難民申請者に対する現在のビルマ情勢を考慮した人道的措置、(2)入国管理局に収容中の在日ビルマ人難民申請者に対する仮釈放、を主旨とした要望書を送付した。

 同弁護団の事務局長である渡辺彰悟・弁護士は、在日ビルマ人が置かれている難民申請の状況について、「多くの活動家が(難民申請の)不認定になったり、不安定なまま生活を強いられている状況がある。あらためて今の状態を再認識して、ビルマ人の庇護(ひご)を強化すべき」としたうえで、ビルマの民主化を望む活動家は難民申請をしただけで軍政から尋問を受ける監視体制に置かれていると話した。

 会見に出席したビルマ人女性(32)の夫は、現在、ビルマで消息を絶っている。夫は日本語が話せるため、民主化デモの様子をデジタルカメラで撮影するなど、日本のジャーナリストの手伝いをしていた。未確認ながら、ビルマで射殺された映像ジャーナリスト、長井健司さんの手伝いをしていた可能性があるという。1988年に民主化闘争に身を投じた夫は、闘争を側面から支援し、たびたび逮捕された。最後に連絡が取れたのは1週間前。女性も活動家で、難民申請中である。

 難民認定を受けたミョーミントゥッさん(38)は、1988年の民主化闘争と今回のデモをめぐる状況を比較し、外国人の出入国の増加、通信手段の発達などをあげ、「軍事政権による弾圧は以前と変わらない。長井健司さんが殺されるのを見て、日本の人たちはやっと気づいた」と声をつまらせながら話した。1992年に難民申請、2000年に認定された。

 伊藤和子・弁護士が事務局長を務めるヒューマンライツ・ナウは、9月28日に国連人権理事会へ特別会合の開催をもとめた要請書を提出し、同理事会は同日中に開催を決定。国連の具体的な行動をのぞむ声が高まっているなか、人権監視団の派遣をもとめた。

 アムネスティ・インターナショナル日本の寺中誠・事務局長は、日本のビルマに対するODA状況の見直しを主張し、ヒューマンライツ・ウォッチの土井香苗・弁護士は、天然ガスなどの利権をめぐる日本企業の動向を注視する必要があると話した。

 同弁護団の統計によれば、難民申請件数は1992年から1?15件だったのが1997年には41件にのぼり、2003年に91件、2004年が98件と最多で、2006年には46件と現在は減少傾向にあるが、1992年から比べると全体的に増えている。

 また、認定者数は1992年?1997年が0件で、1998年?2007年は1?32件とばらつきがあるものの、日本の難民認定の困難さが見受けられる。同弁護団が扱った15年間の合計は、申請者532件のうち認定者数は131件、在留特別許可数は147件。

 9月28日にはNGOなど16団体(1日現在)が共同声明を出している。ビルマの民主化デモは鎮静しつつあるが、国際世論のほうは武力だけでは鎮静できそうにもない。
(黒井孝明)
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特集:ビルマ(ミャンマー)民主化

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■軍事政権に永年自宅軟禁状態におかれている民主化の象徴的存在アウン・サン・スー・チーさんが、独立運動の闘士アウン・サン将軍のむすめさんであるという事実は、日本帝国主義の負の遺産を「解毒」する作用を感じるのか、やたらに有名である。■しかし、かれは抗日運動の闘士でもあったわけで、ヘボい右派ナショナリストが かれを称揚するのはよしておいたほうがいいはず。

■それはともかく、日本人の大半は、アウン・サン・スー・チーさんが軟禁されているという情報をときどきおもいだす程度で、ミャンマー情勢がどう推移しようが、実はあまり関心をはらっていないし、まして、今回の反政府デモにいたっても、お坊さんたちが暴行をうけたといった報道だけでは、対して関心をはらわなかったはず。■要は、「日本人ジャーナリスト射殺事件」という、いかにもナショナリスティックな事態への感情的反応にすぎないような気がする。■ましてや、「難民認定」をうけることがタイヘンだったひとびとへの共感など、ほとんどなかったはず。この、急変は、実にはずかしい事態というほかない。
■ウィキペディアのつぎのような記述もきもに銘じよう〔リンク省略〕。


日本との関係
日本とビルマは、第二次大戦まではほとんどつながりがなかったが、太平洋戦争時に日本軍が進軍してビルマ国を樹立した。戦後、日本はビルマ連邦(当時)と1954年11月に平和条約と賠償協定を締結、1955年から総額2億ドルの戦争賠償が支払われ、以来日本とミャンマーは友好的な関係を築いている。特にネ・ウィンは、日本の政治家に根強い親ビルマ的空気を敏感に察知し、「親日国ビルマ」を演出するパフォーマンスに長けていたことは現代日緬関係史の常識に属する。このことがネ・ウィン(BSPP)時代の巨額の二国間援助に影響を及ぼし、1963年締結の経済技術協力協定に基づく経済技術無償協力(1965年開始、1988年のクーデター以降は事実上停止)や、無償資金協力(1975年開始)などが行なわれてきた。欧米諸国とは対照的に、日本政府は1988年の軍事クーデター後に成立した「国家法秩序回復評議会」政権をいち早く承認し、軍政との要人往来や経済協力による援助を実施し続けてきた。しかし、軍政のアウンサンスーチー拘束による状況変化を受け、人道的な理由かつ緊急性がない援助は、2003年から停止されている。ミャンマーの人権問題や民主化問題に対し、日本政府は軍事政権と民主化勢力の双方に、“対話による解決を粘り強く働きかける”方針を採用しており、これまでに幾度か軍事政権に働きかけを行ってきた。しかし、これまでのところ芳しい成果は上がっていない(友好国たるミャンマーに厳しい態度を取るわけがない、と侮られている疑いがある)。ミャンマーの軍歌には軍艦行進曲の旋律を流用したものがあり、ミャンマーにおける親日感情の存在を示す根拠として提示されることがある。

欧米諸国の中には、「日本は“悪徳”軍事政権に手を貸している」として、今後の対応次第では対日制裁措置をとることを仄めかして日本にミャンマーへ圧力を強めるよう求める動きがあり、これらの状況を受け、日本政府も、新規援助の凍結など軍事政権への新たな制裁措置を検討せざるを得なくなっている。

民間企業でも出資・投資している社が多数ある。

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■ミャンマーで軍事独裁政権がここまでのさばった責任の一半は日本政府や財界にあり、その背後にある、不勉強で厚顔無恥(無知)な日本国民もそのお先棒をかついできいたこと否定できない。■これひとつとっても、つくづく「美しくない国」であることを痛感させられる。