■以前から、奇妙な熱情=一種の病理としてのナショナリズムについて、再三記事をかいてきたのだが、フロイト風にいえば、対象へのリビドーの備給には、一貫して観察できる構造がみえてきた。■ここで、「おぼえがき」として一度整理しておく。

■?ナショナリズムの実践者(以下、「かれら」)は「愛国」をかたるときに、その対象範囲を恣意的に取捨選択する。■その対象は、国体の連続性だったり、文化的独自性だったり、王族の崇高さだったりするが、その恣意性の合理化にはかならず失敗している。成功していると信じているのは、かれらだけだ。■「国土死守」といった目標をたてても、しばしば「トカゲのシッポきり」をする。あたかも「凍傷で復旧不能になった指先は切断するほかない」式のわりきりでもって。朝鮮半島などからの収奪や、沖縄戦準備段階以降の処遇がその典型例だろう。
■?かれらが、しばしば「憂国」というとおり、かれらが「国体の危機」であるとか、「独自文化の衰微」などといったかたちで危機感・焦燥感ほか、さまざまな「問題意識」をもちあわせていることは事実だ。■しかし、それは前項同様、非常に恣意的に取捨選択され、またそこで想定される一貫性なるものは、あやしげな構築物となるほかない。■たとえば「憂国」というが、そんなにほこらしげにふりかえるべき理想の国体が実体として確認できるのかといえば、ほとんどない。それは米英仏中など帝国列強の過去には「黄金時代」がいくらでもあっただろうから、それを恣意的にあつめただけでも、それなりの「物語」にはなるだろうが、それ以外の小国は、それにまなんだらしい、「できない相談」がほとんどだ。■これについても、前項同様、恣意性の合理化にはかならず失敗しており、成功していると信じているのは、かれらだけだ。

■?かれらは、そういった恣意的な取捨選択によって、「美化された自画像」をかこうと日々懸命だが、それは劣等感ないしは焦燥感を基盤としている。■つまり、過去における挫折・屈辱か、近未来に対するとめようのない不安感である。これら劣等感・焦燥感という苦痛からのがれるため、かれらは必死に現実の直視をさけつづける。■いいかえるなら、「美化された自画像」を必要としていること自体、劣等感・焦燥感のみなもとを充分自覚している
〔すくなくとも無意識レベルでは〕わけで、冷静にほこりをもてるような実態をかいているわけだが、その事実を直視したうえでの「改善」「努力」はしたくならいらしく、徹底的に現実回避がくりかえされる。■要は、「美化された自画像」の作成作業は典型的な防衛機制である。


【追記20:20】
■?いってみれば、かれらの防衛機制としての固着は、当然集団神経症的なヒステリー現象として表現される。前項でのべたとおり、自己像に不安がなければ、ことさらに「美化された自画像」を誇示・強調する必要などないわけで、要するに冷静でひかえめなナショナリズムなど形容矛盾というか、事実上ありえないとおもわれる。■(うすうす自覚しているがゆえに)みとめがたい部分の否認・忘却・抑圧という自己欺瞞こそナショナリズムの基盤であり、だからこそ、その自己愛も、そのための手段として援用される彼我の対比による自己満足=他者の過小評価をともなった攻撃などが、みちびきだされるし、それは冷静さをかいた容赦ない苛烈かつ激越なかたちをとることになる。■彼我のそれぞれの長所を冷静に評価でき、それで自足できるのなら、以上のような冷静さをかいた「ひとりよがり」が発生するはずがない。

■?結局のところ、ナショナリズムとは、なさけなさをかかえこんだ、みにくい自己愛である。であるがゆえに、ある意味、近代社会における普遍的な悲喜劇といえる。