人名と漢字については、だいぶかいてきたが、難読苗字はともかく、保護者による「なづけ」は、「思想信条の自由」「表現の自由」といった原則を無制限にみとめるわけにはいかない性格をもっている。

●「人名用漢字の戦後史
●「コドモはオヤをえらべない(トホホな漢字人名)
●「女子大生が命名辞典 椙山女学園大(朝日)
●「雑記帳:男児は大翔、女児は陽菜…今年の命名ランキング(毎日)
●「つけたい名前のイメージ(ベネッセ)
●「〔産経【主張】〕公共財を棄損する「感字」?


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■このなつに刊行された 佐藤稔『読みにくい名前はなぜ増えたか』は、日本語漢字表記による「なづけ」が どのような経緯をもって変動してきたかを歴史的に整理し、最近の「難読人名」の生成の本質をさぐろうというこころみである。
■ただ、いろいろウンチクがかたらるのだが、結局のところ、「人名にかくも自由に漢字を当てることが可能なのは、「常用漢字表」や「人名漢字別表」の範囲の漢字でありさえすれば、実際の「音」「訓」の形は何の制約もないことに起因する」という総括につきてしまう〔p.176〕。■そんなわかりきったことをのべられても、脱力するばかりである。

■また、つぎのような命名観は、現代日本の特殊事情という問題をみおとした認識としかおもえない。フランスなどは法律で有限な人名のなかからえらべるだけで、それ以外を出生のときにえらぶ権利を国民があたえられていなかったのだから
〔現在もそうであるか、また移民の子などが登録されるばあいは、どうなるのかなどは、たしかめていない。しかし、ブレイス語(=ブルトン語)人名で出生届けをだそうとして拒絶された例が、たしか田中克彦『ことばと国家』にあったと記憶する〕


 現代社会に生きる個人には、「私は私」であってほかの誰でもないという意識がある。その個人がほかの誰かの完全なコピーであるということはあり得ない。その人にしかない資質、能力をもち、古今東西、ただ一回きりしか存在しないものである。少なくとも現代人の生き方はこうした考え方を前提としている。人に名をつけるのに、「ほかの誰とも同じでない」特色のある名前をつけたいと考えるのは、理由のないことではないのである。ただし、名をつけるのは新生児本人ではない。自分の名を自分自身で名づけるという行為が原則的にできないのが、この社会のルールになっている。本人による自己命名ができたら、じっくりと望ましい名前を自己の責任においてなされるであろうが、それができない相談なのだから、親の責任で適当な名を考えてやるしかない。子の望ましい将来を思い描いて「ほかの誰とも同じでない」存在を、名前によって予祝したいと考えるのは、親として当然のことである。…


■「自分の名を自分自身で名づけるという行為が原則的にできないのが、この社会のルールになっている」というのは、日本などの近代国家の戸籍制度や個人登録制度が、個人名をそういった「同一性」原則で規制したからだろう(本書pp.103-4)。■実際、芸名や源氏名、筆名など、法的な「本名」とは別種の異名をもっている層が少数いるし、本書でもとりあげられているとおり、ニックネーム(愛称)や通称をもつ個人はすくなくないだろう(pp.100-2)。■本書が丹念にあとづけているとおり、前近代のひとびとは、複数のなまえをしばしば共存させ、すくなくとも、おやからおしつけられた「本名」を一生後生大事にまもりつづけたわけではなかった。■こういった一貫性幻想がいつまでもつづく保証はない。これが「最終段階」で、「つぎがない」なんて、だれも証明していない。「近代」という自己責任原理にのっとった「自由」な時空が、一度はなひらいしまった以上、たとえばファシズムなどの自由封殺空間は一時的にしか復活てきないとか、不可逆なものはあるだろうが、であればなおさら、個人名が自己責任で一生のうちに複数もちいられるという原理が一般化しないという保証がどこにあるだろう。



■ところで、こういった再帰的な「なのり」という行為は、しばしば自意識過剰で、ときに誇大妄想的な醜悪な産物となる。■「名は体をあらわす」幻想や、「言霊(ことだま)」論につきうごかされているらしく、ナルシシズムたっぷりの「なのり」がときに登場するわけだが、筆名などが存外ひかえめなのは、そこに美意識のはどめが機能するからだろう。

■だが、基本的に「自己責任」の「なのり」とはちがって、保護者らによる「なづけ」は、基本的におしつけがましく、かつ、恩着せがましい。「愛情」のおしうりなのであり、いかに自己犠牲的な愛情をそそいだかの自慢とその受容の強要という、実にあさましい無自覚な計算がすけてみえる。■「おれは、てまひまかけて、こんなにてのこんだ立派ななまえをつけたやったぞ。感謝しろ!」=「この愛情にむくいないとしたら、恩知らずの ひとでなしだ」といった、暗黙のおどしだ。
■そして、「おもいれたっぷり」の誇大妄想系「なづけ」のばあい、ほとんどのコドモは「なまえまけ」し、巨視的には 誇大妄想集団の自尊心競争の呈をなし、必然的に「インフレ」する宿命をかかえるだろう。■であるがゆえに、一層奇矯な漢字表記と恣意的な「あて字」競争がとめどもなくくりかえされるという悪循環になるほかない。


■なまえをキリスト教文化圏にちなんだ、ものすごく排外主義的な命名を当然視させただろう フランス、パリといえるだろうが、かれらが非個人主義的で、大衆埋没主義的な、「ドングリのせいくらべ」指向だっただろうか? そんなはずがなかろう。■すくなくとも、ひとひねりした「なづけ」で、その子の性格・人生が独自性をもつはずがない。あまりに ひどい命名であるがゆえに、イジメを誘発したりすれば、はなしは別だが。■そして、「レイモン」だの「シモーヌ」だのといった「平凡」ななまえのなかに、歴史上の有名人が幾人も誕生したことも事実。

■いじわるなみかたをすれば、「子の望ましい将来を思い描いて「ほかの誰とも同じでない」存在を、名前によって予祝したいと考える」といった、あさはかな保護者のもとに、卓越した人物がそだつこと(「トンビがタカをうむ」)は、ほとんどないだろう。■自分たちの凡庸さを かなりの程度自覚しているからこそ、そこから解放されるような次世代への過剰な期待がふくらむのであり、そういった「せのび」しようとあがく保護者が、ロクな育児や教育を維持できるはずがないのだ。


■本書は、資料集としてはかなり興味ぶかいが、?近代における個人主義のもたらした自意識過剰=独自性幻想の次元と、?日本式漢字表記が固有名詞にあたえた力学の次元という、別個の問題が整理しきれていない。■だから、前者について、「子の望ましい将来を思い描いて「ほかの誰とも同じでない」存在を、名前によって予祝したいと考えるのは、親として当然」などと「理解」をしめしていながら、前近代から経緯をもつアナーキーな漢字文化の機能不全が大衆化社会のなかで暴走しはじめたことに、にがにがしげに憂慮をみせる。■要は、自己矛盾をきたしているのだ。