■「俺に理解ができないような難しい文章を書いている奴はみんな莫迦」「「頭のいい人が書く文章」問題について考えている」「「わかる」ことと作者の転生」といった、「賢者の表現/相対的愚者の理解力」問題ともいうべき、一連の記事群(および、記事のなかのリンク群)がある。■これらの文章群の細部にわたって充分な理解をしめしていない危険性のおおきな人物が、「メタ言語(コメント)」をこころみるというのは、まさに、これら文章群のかたろうとしている論理階梯にズブズブとのめりこんでいくことだろうが、一応の思考の整理をしておく。

■管見では
〔これは「「宣伝」の詐欺性、「謙遜」の偽善性」シリーズで整理したとおり、偽善的に謙遜しようというのではなく、単純にウェブログや書籍・論文等をイモづる式に網羅的探索などしていないという、単純な意味である〕これら一群の議論は、まさに哲学する過程での副産物として、すばらしい ひらめきをうむかもしれないが、ことの本質をハズしているようにみえる。■「賢者の表現/相対的愚者の理解力」問題の本質は、かなり単純な構図だとおもえるからだ。
■(1) いわゆる「賢者の表現」が「万人にとっての確認可能な真理」である保証はない。なぜなら、「賢者」が「真理」に到達したことを保証してくれるとはかぎらないからだ。■「フェルマー・ワイルズの定理」が、実質360年間「フェルマー予想」でしかなかったように、ごく一部の天才・超人にしか検証不能な「真理」はかなりありそうだ。■つまり、「賢者の表現」は、原理的には正邪を判定しがたいし、かりに真理でも、だれもが確認できるものではない点で、最終的には権威主義的な思考停止がともなう。厳密な検証が簡単にはできないような、過程の「ブラックボックス」化が常態化するという意味で。■その意味で、「本当に頭のいい人は、めっちゃくちゃ難しいことをわかりやすく書くことがふつうにできる」は、ケースバイケースであり、「賢者」の大衆的・権威主義的な美化・神秘化である。

■(2) 「相対的愚者の理解力」の問題については、「賢者は相対的愚者にわかるよう簡明に解説する責務(=わかるように、かけ/はなせ)」をおうとか、「相対的愚者は、みずからの理解力のなさゆえに、真理への到達困難性についてもどうせ理解不能な可能性がたかい(=てまひまかけて解説しても わからんヤツには、説明するだけムダ)」といった、両極の見解が代表的なたちばとしてうちだされてきた。■前項でのべたとおり、原理的には、後者がただしい。だが、日常生活や通常の学術的空間では、ケースバイケースとおもわれる。

■(3) いわゆる「賢者の表現」が「万人にとっての確認可能な真理」である保証はないという原理を、悪用ないし誤用した「難解さ」がはびこってきた事実は普遍的である。■フランス系の哲学者の一部が暴露したとおり、自覚的に「難解さ」をみずからの表現のブランド化(神秘化)に悪用してきたことは、周知の事実である。■また、「賢者の表現」が「相対的愚者の理解力」への対応力不足・努力不足といった次元で、「賢者の表現力」ならぬ「相対的愚者の表現力」にとどまってきたことも、普遍的現実である。■だから、「本当に頭のいい人は、めっちゃくちゃ難しいことをわかりやすく書くことがふつうにできる」が、「賢者」の大衆的・権威主義的な美化・神秘化であるとしても、「賢者」たちの努力不足を批判するよりどころとして、無意味でない。


■(4) 「賢者」を空間論的・教育論的に隠喩するのであれば、
①「自分自身が迷路にまいこむことなく、あるいは まよいこみそうになっても、地図を調達し妥当な経路を発見できるひと」(走破者・突破者・生存者などとして隠喩できる「賢者」)
②「迷路にまよいこんでいる人物に、妥当な地図と経路を明確に指示できるひと」(指導者・預言者などとして隠喩できる「賢者」)
の両面に分解して分析すべきであり、両者を区分しない「賢者」論は、「表現」「理解」の双方で無意味な議論の空転をまねくだろう。
■「一流のアスリート・武芸者・研究者が、一流の指導者になるとはかぎらない」(名手かならずしも名将ならず)こと、「一流のアスリート・研究者をうみだした指導者が二流のアスリート・研究者でさえない人物である」(出藍のほまれ)ことがままみられるように、自分自身が「目的地」への「妥当な走路・走法」を発見できる能力と、それを事後的に解説・指導にいかせる能力は、別ものである。■さらには、「目的地への走路・走法」を期待している人物に対して、その能力を適切にみきわめ、「妥当な走路・走法を判断・指示・指導できる能力」となれば、一層別物である。
■ただし、武芸者をふくめた技芸の求道者、研究・学問・取材などを追究する人物は、その いきる姿勢だけで 教育者・指導者たりえるばあいがある。■前進・上昇、ないし休止・下降しようとするその姿勢自体が教育的であり、それに感応しえる才能にとって、最良の指導者であるから。■この構図のばあい、「一をきいて十をしる」「出藍のほまれ」もありえる。もちろん、「劣化コピー」の方がおおそうだが(笑)。

■(5) まとめていうなら、③「賢者」かどうかさだかはでない「知識人」が、「真理」に「到達」している保証はない。■④「知識人」が、「真理」に「到達」していても、それが「万人にとっての確認可能な真理」である保証はない。■⑤一方、「一部にしか確認不可能な真理」というイメージを悪用して、みずからの神秘化・ブランド化に活用するやからがはびこるし、悪意はなくとも誤用して、すべき努力をおこたったり、みずからの能力不足・努力不足に無自覚なばあいがすくなくない。■⑥しかも、「真理」をもとめる各層・各人にとって「妥当な走路・走法」を判断・指示・指導できる能力は、かなり高度な水準にあり、そのことの重要性は軽視されてきたし、ましてやそれにまつわる諸問題の体系的整理は充分になされたことがない。■⑦「修業」系・「求道」系のばあい、意図しない「指導者」が出現しうるが、そのばあいは「指導者」の質というより、「修行者」の感応力が重要である。

■(6) いわゆるビジネス関係では、以上のような問題群がすでに解決ずみであるといった風潮があるようだ。■新人研修であるとか、顧客への問題提示であるとか、新商品の紹介であるとか、すべて論点が明晰に分析されつくされ、視聴者たち各層・各人の属性・能力に応じた「最適解」が完全に整理されているように喧伝されているようだ。■しかし、それが真実なら、世間でこれほどの問題が多発することはありえまい(笑)。