■『hituziのブログ 無料体験コース』の先月の文章「学校、教育、よみかき計算」は、重要な提起をしている。
■今回は、直接そこへの意見ではなくて、そこにリンクされている記事へのツッコミ。■たとえば「学校を廃棄したその後」〔『モジモジ君の日記。みたいな。』〕では、つぎのような文章にぶつかる。

…「どこで漢字を覚える」、「どこで九九を覚える」、こうした具体的な問題について考えないでどうするんだ、と。もちろん、「漢字や九九」のために、「今ある学校をそのままにしよう」と言う人たちはアホであり、そこまで言わなくても、今とは異なる学校・今とは異なる世界を考えられない、という人もアホだとは思う。そういう論外な人たちはとりあえず置いといて、という話として言うならば、学校を廃棄した後に何を持ってくるのかを、そろそろ考えないとダメだろう。まさか、九九も漢字もできないままに今ある社会に放り出すのだというわけではないし、九九も漢字もできないまま出ても大丈夫な社会を作ろうとか言うなら分からないではないが(全然無理だと思うけど)、ともかく、どこへ行こうとしているのか、それをちゃんと語る必要が、そろそろ、ある…

■「九九も漢字もできないまま出ても大丈夫な社会を作ろうとか言うなら分からないではないが(全然無理だと思うけど)」と断言してしまえる、ゆるぎない自信は、どこからくるんだろうね?
■でもって、これについては、hituziさんが、コメント欄で

hituzinosanpo 『すいません。よこやりです。

「九九も漢字もできないまま出ても大丈夫な社会を作ろう」という文章(「漢字という障害」)をましこ・ひでのり編『ことば/権力/差別』という本によせていますので、これを機会にごらんください(笑)。『社会言語学』6号収録の「均質な文字社会という神話-識字率から読書権へ」もあわせてご紹介します(http://blog.goo.ne.jp/hituzinosanpo/e/6b09c0b165b7a198b3ebb0d1f24194e0)。

「よみかき計算」が教育・学習の基礎(あるいは社会生活に必要不可欠な能力)だという発想は、もはや なりたたないと おもっています。学習障害をもつひとがアメリカでどのような学習支援をうけているのかをしってみれば、いかに「日本的」な教育概念がまずしいものであるかを痛感させられます。ま、学校が「学習障害」をつくるんですけれど。』 (2007/09/25 10:54)


と、やんわり批判しているんだが、とうの運営者の御仁は、つぎのようにハズしてしまっている(もちろん、その自覚などなかろう)。

mojimoji 『元々、学校廃棄論との間でのやり取りですから「九九も漢字もできないまま社会に放り出す」というのは、「すべての人を」という意味です。誤解が生じるのはしょうがないとは思いますが、少なくともそれは誤解です。当然、「九九も漢字もできなくてもいい社会」は、「誰もそういうものを習っていない社会」ということです。大分意味が違うと思います。/で、「学習障害を持つ人が学習支援を受けている」という話は、少なくとも僕が本エントリで学校廃棄論に対して提示しているところの「介入や干渉をゼロにできない」という意味での教育の必要性を、むしろ支持する証拠だ、ということです。』 (2007/09/25 11:54)


■hituziさんは、これに応じていないが、いそがしいから、つきあってられんということだろう。だって、この運営者氏の返答は、ちょうど1時間後なんだが、その時間内にhituziさんが指摘した文献にざっとでもめをとおしたとはおもえないんだな。■運営者氏が、「「九九も漢字もできなくてもいい社会」は、「誰もそういうものを習っていない社会」ということ」と断言している点は、一見ラディカルではある。が、そういったもの、ハナから不可能ときめつけている点で、架空の想定でしかない。
■しかし、hituziさんは、「漢字という障害」とかいった観点から、「九九も漢字もできないまま出ても大丈夫な社会を作ろう」という、空想的な理想論ではなくて、実現可能な社会を想定している。運営者氏は、九九も漢字も便利で不可欠な装置で、学校という機関をとおすとおさないにかかわらず、かならず保証すべきものとかんがえているが、hituziさんは、「できないとこまる」社会こそ「障害」だと、障碍者をとりまく社会的環境を問題にしている。運営者氏は、おそらく文献にあたっていないで反応しているので、hituziさんの提起を、単にハズしているとしか感じとれなかったわけだ。
■だから、運営者氏は、「「九九も漢字もできなくてもいい社会」は、「誰もそういうものを習っていない社会」ということ」と断言していることの射程をとらえそこなっているんじゃないか? ■「九九も漢字もできないまま」社会にでることが、致命的に不利にはたらく社会自体の変革をhituziさんは提起している。■「九九も漢字もできないまま」社会にでることが、致命的に不利にはたらく社会を事実上黙認ないし、正当化してしまっているだろう運営者氏と、それが情報弱者を不能化する、抑圧的・差別的空間ととらえるhituziさんとでは、「九九」「漢字」という文化装置とか義務教育制度の意味がまったくちがってしまう。■うえで引用したやりとりの、どうしようもないズレは、そのあたりにあるんだが、hituziさんはそこに自覚的でツッコミを放棄しているのに、運営者氏は、議論上、hituziさんの認識不足と誤解したままなんだとおもう。■そうでないと、「「学習障害を持つ人が学習支援を受けている」という話は、少なくとも僕が本エントリで学校廃棄論に対して提示しているところの「介入や干渉をゼロにできない」という意味での教育の必要性を、むしろ支持する証拠だ、ということです」といった、hituziさんへの返答に全然なっていない文章なんてかきこめないはず。

■「(差別的な)現実社会は 近未来的にどうせほとんどかわらない」という事実認識で合意がとれるにしても、「中長期的に、こういった差別抑圧的な社会はかえられるし、かえるべきだ」ととらえているだろうhituziさんと、そうでない運営者氏のミゾは、おそろしいほど、ふかい。

■つぎも、hituziさんがリンクしている記事「「世界を了解するためのスキル」としての教育」〔『世界、障害、ジェンダー、倫理☆』〕。

……
モジモジさんが(もとは貴戸さんと常野さんが)例に出している「漢字や九九」についてはどうか。それらはまさに、「世界を了解するためのツール」である。モジモジさんがsarutoraさんに反論しているように、それらを知った上で世界と相対するのと、知らずに相対するのでは、有意な差がある。それは、世界と、「世界に生きている私」とを切り結ぶべき「私の認識の枠組み」にかかわることである。そして僕は、この「ひとの認識の枠組み」の根幹をなす部分に関しては、どうしても強制的に教えるよりないものがある、と考えている。「この世界において私が主体的に*1生きるためにこそ、強制的に教わらなければならないものがある」と思うのだ。言い換えれば、「何を学ぶべきか」を主体的に考えていくためにこそ、受動的に教わるべきものがあるということである。

強制的に教えるということは、パターナリズムではないのか、そういう反論もあるだろう。それは事実そうである。しかし、反論にはなっていない。とりわけ社会福祉業界では、「自立/自律の尊重」が善とされ、パターナリズムが悪とされる傾向にあるが、むしろそれらは同郷であって(立岩真也)、パターナリズム的な強制がかならずしも悪とは限らない。とりわけ、教育の基礎的な部分において、「どう主体的に生きていくか」にかんすることを自分で考えさせるために、教え込むことはあってよいし、むしろそれがないとひとは認識する手段を与えられない。ただ、教育者とて全知全能であるわけではないから、そうした認識の枠組みは常に批判的に検証される余地がある。そのことまで含めて、一定程度の強制があるべきである。

だとすれば、真の問題とは、「世界を了解するために、何を教えるべきか」という教育内容になるはずなのである。これも多文化教育、などとは言われるが、実際のところ具体的に何をしてよいのか、すべきでないのか議論が詰められていないようにも思える。……

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■「漢字」や「九九」が、本当に「世界を了解するためのツール」で、正当化できるパターナリズムでおしつけるべきものだろうか? すくなくとも近代日本で自明視されてきた「漢字」や「九九」について、「「世界を了解するために、何を教えるべきか」という教育内容」といった次元で真剣に検討されたことがあっただろうか? ■漢字という文化装置にしがみつかねばならない必然性、九九を暗記していないと日常生活に支障をきたすような社会のままでのいいのか? はたして「漢字」や「九九」が、本当に「世界を了解するためのツール」にほかならないのか、障害学の知見などをふまえた総合的な検討がおこなわれたことがあっただろうか? ■ここでいう「パターナリズム」は、結局のところ、外国人への日本語教育支援などと同様、オトナ/非障害者/中産階級が共有する既存の支配的文化を自明視して同化をせまる作業と大差ない姿勢にとどまってしまわないか?