前便とおなじく、素材は『モジモジ君の日記。みたいな。』。■これまた、1か月まえのネタ。「独立しなかった植民地=沖縄を考える

……植民地主義への抵抗が目指したもの=目的はそこに住む人々それぞれの自由だったはずであり、独立はそのための手段に過ぎなかったはずである。「しかし、独立ですべての問題が片付くわけではないにせよ、まず独立することは不可欠のはずだ」。このように述べるのだろうか。しかし、このこと自体、検討の余地がある。それはつまり、独立しなかった植民地であるところの沖縄をどう考えるか、という問題でもある。



 沖縄は独立しないことによって、曲がりなりにも日本社会の一員となった。現状、満足のいく状況だとは思わない。だから独立すべきだった、と言えるかどうか。それは少なくとも「わからない」としか言いようがない。個人的な見解として言うならば、独立すべきだったとも思わないし、今からでも独立すべきだとも思わない。
 理由はいくつもあるが、一つだけ述べよう。仮に、沖縄が独立していたならば、沖縄社会は必ずや中国ならびに日本(そこにアメリカを加えてもいい)の領土的野心の中で翻弄されていたはずである。独立は、何の憂いもない清清しい自由を意味しなかったことは明白である。台湾でさえ、あのように不安定な地位にあるのである。沖縄が独立したとして、わずか人口100万の小国に一体何ができたであろうか、と考えるならば、独立なんてとてもとても、という話である。



 しかし、沖縄が独立しなかったからといって、これは単なる服従を意味しない。これは、国際社会の中に孤立する島国として国際法とその国力のみを頼りに自由を勝ち取る闘争と、日本社会を律するはずの日本国憲法を用いて日本社会の国内問題としてその自由を勝ち取る闘争の、どちらをゆくか、という問題である。現に沖縄の置かれている状況は、それに満足しうるものではまったくないけれども、しかし、事あるごとに政治的論点として浮上し、日本社会を揺さぶり続ける異物であり続けている。仮に独立していたとして、このような大きな影響力を日本社会に対して持つことは、おそらく無理だったであろう。このような沖縄の歩んできた道筋は、必ずしも独立によらない道をも示している。これはこれで、一つの(それも有力な)抵抗のあり方なのだ。

 サルトルの発言は、独立へ向かうアルジェリア内部の論調と、それを阻もうとするフランスの「良心的」知識人という文脈があってこそ、意味を持つものである(そういう文脈が本当にあったかどうかは知らないが)。しかし、もし、アルジェリアの人々が、独立ではなくフランスへの統合とフランス憲法による同等の権利の保障を要求していたら、サルトルは何を言った(言うべきだった)のだろうか。──いずれにせよ、サルトルにおける問題は、あくまでも、フランスに住むフランス人として何ができるか、ということなのであり、独立と統合のどちらの道を行くのかは、アルジェリアの人々の問題なのである。このように、独立か統合かという問題は、決してアプリオリに答えが決まっている問題ではない。



 当然、学校における支配という問題においても、学校をなくすという答えに決まっているわけではありえない。そこに何を作るのか、という具体的な検討なくして、何もいえない。私たちの目的は、学校に現にある支配を廃することであり、それが学校をなくすことによるのか、他のどんなやり方によるのかは、決まった話ではないはずである。
……

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■コメント欄などをみるかぎりは、誠実にものをかんがえようとしていることは感じられるが、こういった私見をのべてしまうことの政治性については無自覚なようだ。■はっきりいって、つぎのような箇所は、完全に介入的であり、「独立派」に位置するウチナーンチュほか、琉球列島住民の一部からは、痛烈な反発がでて当然だ。


……個人的な見解として言うならば、独立すべきだったとも思わないし、今からでも独立すべきだとも思わない。


 理由はいくつもあるが、一つだけ述べよう。仮に、沖縄が独立していたならば、沖縄社会は必ずや中国ならびに日本(そこにアメリカを加えてもいい)の領土的野心の中で翻弄されていたはずである。独立は、何の憂いもない清清しい自由を意味しなかったことは明白である。台湾でさえ、あのように不安定な地位にあるのである。沖縄が独立したとして、わずか人口100万の小国に一体何ができたであろうか、と考えるならば、独立なんてとてもとても、という話である。

 しかし、沖縄が独立しなかったからといって、これは単なる服従を意味しない。これは、国際社会の中に孤立する島国として国際法とその国力のみを頼りに自由を勝ち取る闘争と、日本社会を律するはずの日本国憲法を用いて日本社会の国内問題としてその自由を勝ち取る闘争の、どちらをゆくか、という問題である


■よくある「独立不可能論」である。しかし、それは仮想上のことなのだから、実際独立したばあいにどうなるのかなど、それこそ「やってみなければ、わからない」のである。■しかも、つぎのような発言は、はっきりいって、「いさみあし」というより、暴言だろう。


…現に沖縄の置かれている状況は、それに満足しうるものではまったくないけれども、しかし、事あるごとに政治的論点として浮上し、日本社会を揺さぶり続ける異物であり続けている。仮に独立していたとして、このような大きな影響力を日本社会に対して持つことは、おそらく無理だったであろう。このような沖縄の歩んできた道筋は、必ずしも独立によらない道をも示している。これはこれで、一つの(それも有力な)抵抗のあり方なのだ。


■これって、実際に「抵抗」が実践されているってことにもたれながら、現状を容認してしまっている論理でしょ? ■そして、米軍支配と、それを追認というか、強力にヨイショしてきた日本人に対して、ずっといきどおっている層からすれば、「現に沖縄の置かれている状況は、それに満足しうるものではまったくないけれども」なんて、まくらことばは、保守派がちらつかせる鎮痛剤というか覚せい剤的な「からめとり」にしか、きこえないとおもうよ。■そういった自覚があるんだろうか?


■障害学の主流は、非障碍者は障碍者についてかたるな。非障碍者と障碍者の関係性、より直接的には、自覚・無自覚をとわずくりかえされる、差別・抑圧を自覚し、「よりリアルな非障碍者の自画像」作成作業にとりかかれ。と命ずる。■琉球列島がおかれている政治経済的磁場についても、まったく同様のことがあてはまるはず。ヤマトゥンチュは、ウチナーンチュの独立の選択をウンヌンするたちばにない。「いらぬ おせっかい」だ。


■ところで、この沖縄論と、学校論の接続は、意味不明だね。「沖縄独立(ほぼ)不可能」論を合理化することによって、並行して「学校廃止(ほぼ)不可能」論を合理化しようというのか? ■はっきり実現可能な選択肢が提示できないかぎり無責任、っていいかたは、一見オトナのリクツにみえるが、ヘタすれば、保守オヤジとほとんどおなじ結論にたどりつきかねない。「民主主義と同様、思索・運動は、てつづきです」ってのは、一応正論だが、「途中の作業が誠実であれば、敵と同一の到達点でもあり」ってのは、かなりヤバいとおもうが…。■だって、本人が主観的に誠実に思索をかさねているつもりでも、となりに実際には実現可能かもしれない別ルートがあるかもしれないでしょ? 「地獄への道は善意で舗装されている」という苦言があるように、当人の主観的誠意が、「妥当な経路」である保証などない。そして、それを構造的弱者にむかって「といて」しまうことは、構造的暴力に荷担することになるだろう。


●「地獄への道は善意で敷き詰められている
●「地獄への道は善意で舗装されている