■別処珠樹さんの『世界の環境ホット!ニュース』の 先日の記事。■シリーズ第63回で、61回・62回とつづき。【リンクはハラナ】。

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世界の環境ホットニュース[GEN] 650号 07年10月18日
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枯葉剤機密カルテル(第63回)         
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枯葉剤機密カルテル       原田 和明

第63回 消えた汚染廃棄物

イクメサ工場の爆発事故は大量のダイオキシン汚染物を生み出してしまい、イタリア政府はその処分に苦慮していました。中でも封鎖中のイクメサ工場内に残されていた反応釜には特に大量のダイオキシンが残存していると予想され、その処分は最大の懸案事項でした。ところがあるとき、汚染工場に置いてあったはずの反応釜や汚染土壌を含む廃棄物が忽然と姿を消していたのです。
「セベソ事件の廃棄物が密かに国外に持ち出されていたらしい」との噂話を綿貫礼子が初めて聞いたのは 1983年1月、ベトナムでの国際シンポジウムに参加した折、ヨーロッパの科学者から立ち話でのことでした。(綿貫礼子「胎児からの黙示」世界書院1986)環境保護団体グリーンピースの告発がきっかけとなって、ダイオキシン汚染物持ち去り事件が科学誌に取り上げられるようになったのは4月になってからです。(綿貫礼子・河村宏「毒物ダイオキシン」技術と人間1986)
綿貫が事件の概要を「胎児からの黙示」の中で紹介しています。(以下紹介)

1982年9月、北フランスの、ベルギー国境にほど近い サンタンカンで、不審な廃棄物を運搬中のトラックがフランス警察に捕まった。廃棄物内容明細書の記載不備の容疑で運転手は逮捕、「汚染物」も押収され、警察の倉庫に保管された。このときの廃棄物こそ、セベソのイクメサ工場から運び出された数十本のドラム缶で、中には 約2.2トンのダイオキシン汚染物が詰められていた。運転手の供述から、運搬はフランスの廃棄物処理業者スペリデク社が請け負っていたことが判明した。しかし、この時点では警察も「廃棄物」がセベソ事件のものだとは気付かなかった。その後、フランス環境庁がセベソの汚染物が行方不明になっているとの情報を得て、調査を開始したが、そのときには既にフランス国外に持ち出された後だった。フランス環境庁は「調査したが何もわからなかった。」と発表した。

その後、セベソの汚染物は再び姿を現している。ベルギーの監視船が西ドイツの廃棄物運搬船マシアスII号(西ドイツ・パディシュ社が契約)を立入検査して、セベソの汚染物を積載していることを確認している。しかし、このときは、汚染物は押収されず、再び行方不明となった。このとき汚染物の隠し場所として西ドイツ・ハンブルグにある枯葉剤メーカー・ベーリンガー社の産業廃棄物処分場が疑われた。(綿貫礼子・河村宏「毒物ダイオキシン」技術と人間1986)
西ドイツ環境庁は西ドイツに陸揚げされたとは信じがたいと発言している。西ドイツ政府はホフマン・ラ・ロッシュ社に汚染物行方不明事件への関与を問いあわせたが、回答は得られなかった。ところが西ドイツの市民団体BUUが追及したところ、「西ドイツのマンネスマンイタリー社に廃棄物の処分を委託した」ことを認めた。

こうして、マンネスマンイタリー社はフランスの廃棄物処理業者スペリデク社を下請けに雇い、セベソから汚染物を運搬したことが判明した。さらにフランス・スペリデク社は西ドイツ・パディシュ社と同じ会社であることが暴露され、結局、西ドイツ・パディシュ社が最初からこの問題に関与していて、フランスの港経由で西ドイツに運んだものと推定された。問題の投棄場所については特定することはできなかった。

ところが、1983年 5月19日、スペリデク社の社長の自供により、汚染物の行方が判明した。汚染土を詰めたドラム缶41本(2.2トン)が 北フランス・ピカルディ県アンギルクール・ル・サール村の食肉処理業者の倉庫で発見された。しかしながら、イクメサ工場からもちだされた汚染物が発見されたドラム缶だけだったという証拠はない。反応釜が見つかったかどうかも不明のままである。

(紹介終わり)

ところで、発見された汚染物に対し、イタリア政府は受け取りを拒否しました。親会社ホフマン・ラ・ロッシュ社の母国スイス政府が「道義的責任」で汚染物を受入れ、ロッシュ社の本社があるバーゼルで保管されることになったのです。その後、バーゼルにあるチバガイギー社の焼却炉で処分されました。この事件から有害廃棄物の越境を禁止したバーゼル条約が締結されることにつながっていったのです。

ところで、なぜイクメサ社の工場に 放置されていた 反応釜を含む汚染物が持ち出されたのでしょうか? そして8ヶ月後になぜ廃棄物は発見されたのでしょうか

まず、イタリアの事情からみてみます。イタリア政府は「セベソ」汚染物発見後も引取りを拒否したように、その処分に苦慮していました。「セベソ」汚染物が消えた1982年秋にイタリア政府はロンドン投棄条約協議会に海洋投棄の許可申請を出しています。当時の海洋投棄場所はイギリスが核廃棄物の投棄場所としていたスペイン沖700キロの地点です。当時、海洋投棄を危険視する世論がヨーロッパで盛り上がっていて、1983年から規制強化の動きがあり、それを見越した申請とみられます。(綿貫礼子「胎児からの黙示」世界書院1986)その申請とほぼ同時に「持ち去り事件」が起きていたというのはどういうことでしょう。汚染物の「持ち去り」にはイタリア政府も加担していたと考えられます。汚染物が行方不明になっていたのに何の発表もせず、事件は運転手の逮捕という偶然と、その情報をキャッチしたグリーンピースの指摘により初めて事件が明らかにされたのですから。その点ではフランス、西ドイツ、ベルギー各政府も汚染物の所在確認への姿勢が非常に淡白なことから、イタリア政府も含めて、汚染物の処分について何か合意があったのではないかと思われます。

そこで、イタリア政府による「表向きの処分計画(海洋投棄)」と別にホフマン・ラ・ロッシュ社をはじめNATOによる「ウラの処分作戦」が同時に始まったのではないかと推定されます。イタリア政府から出された汚染物の海洋投棄申請は情報攪乱作戦に過ぎず、実際には、各国政府の連携により密かに別の場所で処分してしまう計画が存在したのかもしれません。汚染物を闇に葬りたい事情があったのでしょう。「ウラの処分作戦」の一端が、作戦を知らされていないフランス警察の末端担当者による逮捕などの偶然で所どころ姿を現したというのが実情でしょう。

「ウラの処分作戦」が登場した背景には、ダイオキシン汚染土壌が行方不明になっていた時期に、枯葉作戦の全貌が明らかになるかもしれない重大局面を迎えていたことがあげられます。

セベソ事件と同時期、1976-77年にかけて、アメリカ東部・ナイヤガラフォールズ市のラブカナル地区で枯葉剤メーカーのフッカー社がかつて埋め立てたダイオキシン汚染物が原因で、住民の間に奇形児の出産や流産、死産が相次ぐ事態が発生しました。その後ダウ・ケミカル社など枯葉剤メーカーによるダイオキシン汚染事件が次々に明るみにでる中、アメリカ環境保護庁(EPA)がラブカナル地区住民36人を調査したところ、11人に染色体異常が発見された」と発表。政府の不作為に怒った住民がEPAに押しかけ、住民の移住を要求するなど混乱が続き、1980年5月にはカーター大統領が二度目の「非常事態宣言」をだして住民2500人の一時避難を発表したのです。

このような世論に押されて1981年春には、ベトナム帰還兵たちが枯葉剤メーカーを訴えた手続きには問題がないとの判決が出て、アメリカ政府と枯葉剤メーカーが訴訟対策を画策しなければならない状況になっていました。(第38回「法廷の枯葉剤」GEN624号

1982年になると、国立衛生研究所の国家毒性評価計画の中で、ダイオキシンの発ガン性に関する主要な研究が終わり、改めて、これまで動物実験に使われた物質の中で最も発ガン性が強いことが確認されました。そして、「ダイオキシンは人間に知られている最も有毒な化学物質」と認識されるようになったのです。(ギブス「21世紀への草の根ダイオキシン戦略」ゼスト2000)

綿貫礼子は「未来世代への戦争が始まっている」(岩波書店2005)の中で次のように語っています。

M・メセルソンらハーバード大学グループのダイオキシン毒性研究の告発を恐れて、アメリカ政府は真の理由を公表せずに化学兵器使用中止(枯葉作戦の中止)の政策決定をあわてて行なった。さらに化学兵器中のダイオキシンの毒性知見を隠蔽するという犯罪的行為を、ベトナム戦争中はもとより戦後1975年以降長期にわたり重ね続けた。戦中戦後のダイオキシン研究は、オレンジ剤の原料の主要生産企業とアメリカ政府の手に把握され、テータの改ざん、虚偽、隠蔽の 歴史が 繰り返された。イギリス・リード大学のA・ヘイによる『The Chemical Scythe』(1982年に出版)を筆頭に、最近のアメリカのNGO調査報告などでも、そのことが暴きだされている。

アメリカ政府・軍と枯葉剤メーカーによって積み重ねられてきた「テータの改ざん、虚偽、隠蔽の歴史」が、枯葉剤訴訟が始まるという最悪のタイミングで明らかにされたのです。封鎖中のイクメサ工場からダイオキシン汚染物が忽然と消えたのはこのときでした。

そして、セベソの汚染物が姿を消した翌月、1982年10月25日、アメリカ連邦議会会計監査局が一冊の報告書を提出しました。表題は「復員軍人局によるオレンジ剤調査計画」で、議会から政府と軍に対し、被曝兵士の調査と救済を十分行なうよう再度勧告したものでした。
早速、復員軍人局では「オレンジ剤レビュー」を創刊し、調査も啓蒙活動もやってますとの姿勢を示しています。ただ、元兵士たちの不信感は根強いものがありました。「ただ否定するための材料集めをしてきただけではないか」と。(中村梧郎「母は枯葉剤を浴びた」新潮文庫1983)枯葉作戦の隠蔽工作は限界に来ていました。

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■将校・兵士たちの犠牲(戦病死・戦傷)が美化される構造に、たくらみがかくされているとおり、傷病の経緯の調査だって、かれらのためにデータ収集・分析とはかぎらない。■そして、この事件は、国際的な、しかも政府間のヤミ協定・密約という、実に巨大な問題だということ。ホントに、うすきみわるいね。