■別処珠樹さんの『世界の環境ホット!ニュース』の 先月の記事。■シリーズ第64回で、61回・62回・63回とつづき。【リンクはハラナ】。

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世界の環境ホットニュース[GEN] 651号 07年10月30日
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枯葉剤機密カルテル(第64回)         
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枯葉剤機密カルテル           原田 和明

第64回 第二次枯葉作戦

「セベソ」の汚染物が消えて3か月、1982年12月にアメリカ・ミズーリ州タイムズビーチで大規模なダイオキシン汚染事件が発覚
しています。隣町の農薬工場から出されたダイオキシンを含む廃棄物が廃油と混ぜられて「ほこり止め」として道路に散布されていたことが原因でした。(タイムズビーチ事件その農薬工場はベトナム戦争の期間中、米軍と契約して枯葉剤の一成分245Tを、戦後はイクメサ工場と同じく 殺菌剤ヘキサクロロフェンを製造していました。83年2月には土壌から500ppb(環境基準の500倍)のダイオキシンが検出されました。(川名英之「検証・ダイオキシン汚染」緑風出版1998)

続いて5月には、ニュージャージー州のニューアークにあった枯葉剤メーカー・ダイヤモンド・アルカリ社の工場跡地の土壌からも500ppbのダイオキシンが検出されています。同社は1950年代と60年代に爆発事故を起こしていて、土壌汚染が心配されていたのです。(川名英之「検証・ダイオキシン汚染」緑風出版1998)

恐らく、イクメサ工場には隠しておきたい秘密があったのでしょう。世間のダイオキシンに対する関心が高まる中、証拠隠滅のため、廃墟から汚染物を持ち出したものの、偶然にフランス警察やベルギーの監視船に発見された上、タイムズビーチ事件やダイヤモンド・アルカリ社の工場跡地の汚染報道などで社会的関心を呼び、汚染物が行方不明のままでは却ってミステリーとして人々の記憶に留まってしまうことを恐れたのではないかと思われます。
そして、イクメサ工場の秘密とは、「爆発事故が起こる数ヶ月前からトリクロロフェノールの生産を秘密裡に再開していた」(綿貫礼子「生命系の危機」アンヴィエル1979)ことと関係があるのではないかと思われます。「爆発事故が起こる数ヶ月前」とは1976年の初めにあたりますが、この頃、東南アジアに大きな動きがありました。75年4月に 南ベトナムの首都サイゴンが陥落、隣国カンボジアでも、カンボジア民族統一戦線(クメール・ルージュ)が首都プノンペンを占領、南ベトナムに続き、アメリカが支援していたクメール共和国も崩壊しています。その直後の5月に、クメール・ルージュがアメリカ商船を拿捕した「マヤグエース号事件」が発生、ベトナム戦争が泥沼化していた1968年にアメリカの情報収集艦が北朝鮮に拿捕された「プエブロ号事件」の再現のような事件でした。

ウオーターゲート事件で失脚したニクソンから代わったばかりのフォード米大統領にとって最初で、かつ重大な外交危機に直面したのです。フォードは沖縄の海兵隊をタイのウ・タパオ基地経由で派遣し、乗組員の救出には成功したものの、米兵51名が戦死、うち3人はクメール・ルージュに処刑され、(Wikipedia)アメリカの威信回復にはつながりませんでした。さらに、タイでは、沖縄のアメリカ海兵隊派遣に際し、タイ政府がウ・タパオ基地の使用を認めなかったにも関わらず、使用を強行したため、国民から米軍撤退要求がだされ、反米運動へと発展
しました。そして76年になると、北ベトナム労働党がベトナム統一国家を樹立しました。このように、東南アジアには次々と反米の狼煙があがっていたのでした。

元々、イクメサ工場は枯葉剤の原料を作っていた工場ですから、イクメサ工場が枯葉剤原料の生産を再開したのは、再び東南アジアで戦火を交える準備だったと考えられないでしょうか。あるいは威嚇目的で、再び枯葉作戦が強行されていたかもしれません。そこへ大爆発事故が起こり、西ドイツ・バイエル社など245TCPを生産していた他の工場も生産自粛に追い込まれて(綿貫礼子「生命系の危機」アンヴィエル1979)、第二次枯葉作戦は計画自体が吹き飛んだのでしょう。ジボダン社の社長は「イクメサ社では兵器は絶対に製造していない。」と繰り返し発言していますが、現地のジャーナリスムでは「イクメサ社はNATO軍の機関工場ではないか。」との声もでています。

ちなみに朝鮮で起きた「プエブロ号事件」では、アメリカは乗組員の解放要求を北朝鮮に拒否された挙句、北朝鮮が用意した「スパイ活動を認める謝罪文」調印させられています。(Wikipedia)その腹いせか、米軍は 韓国国境付近で枯葉剤2万1千ガロン(判明分)を散布しています。(第37回、GEN623号

「セベソ」の汚染土壌が発見された 83年5月には、ニューヨーク連邦地裁のブラット判事が、「米国枯葉剤メーカーを訴えたベトナム帰還兵の訴訟は有効である」と認定し、裁判 開始が決定しました。(第38回「法廷の枯葉剤」GEN 624号)また同年にアメリカ連邦議会はラブカナルやタイムズビーチなどでのダイオキシン汚染に対する世間の懸念に応えて、枯葉剤の前駆体245TCP(トリクロロフェノール)の生産と製造施設、及び関連する廃棄物処理場のダイオキシン汚染の程度を調査するよう環境保護庁(EPA)に指示していました。(ギブス「21世紀への草の根ダイオキシン戦略」ゼスト2000)その中で、セベソの汚染物を隠し続けることは限界だったかもしれません。

「セベソ」のドラム缶が発見されるとほぼ同時に、西ドイツのベーリンガー社とイギリスのコアライト社が相次いで245T工場の操業を停止。続いて7月になると、福岡県にあった 三西化学の久留米工場が 一切の操業を停止、この時点で245T工場はニュージーランドのイワン・ワトキンス・ダウ社だけとなりました。恐らく、このとき初めて、枯葉作戦も復活することがほぼなくなったことが確定したと考えられます。

日本で初めてダイオキシンの問題が大きく取り上げられたのは1983年11月、愛媛大学農学部教授・立川涼が国内の都市ゴミ焼却炉の焼却灰からダイオキシンを検出したと発表したときです。枯葉作戦の復活がなくなった後で、国民には「ダイオキシン問題=ゴミの問題」との認識が広まっていくことになりました。ダウ・ケミカル社のキャンペーンそのものの理解を、農林省(現・農水省)は農薬問題の隠蔽に、厚生省、通産省はその後の新たな焼却炉ビジネス創設に大いに利用しました。農水省が中西準子らから「ダイオキシン問題=農薬問題であり、三井化学(当時は三井東圧化学)は自社の農薬にダイオキシンが含まれていることを知っていた。」と指摘されて逆上したことは 第24回「ダイオキシンは語る」(GEN609号)で紹介した通りです。

それでもついに、1987年8月6日、イワン・ワトキンス・ダウ社の親会社であるダウ・ケミカル社は枯葉剤245Tの生産中止を発表しました。ダウ社はこの決定の理由として、製品は安全で有用だが、医学テストの費用がかかること、有力環境団体の反対運動が続くことで収益に深刻な影響があったことをあげました。生産は1987年12月で中止、在庫は88年末までに使い切る、としていました。(マイケル・ブラウン他「グリーンピース・ストーリー」山と渓谷社1995)

確かに枯葉剤訴訟和解以降に、ニュージーランド国内で枯葉剤が再利用された証拠があります。1987年の農業省報告に「24Dと245T混合農薬」の取り扱い説明があるのです。24Dと245T混合農薬とはオレンジ剤に他なりません。(第6回、GEN589号)しかし、それでも使用しきれないほど大量の在庫があっ
ことでしょう。処分に困った枯葉剤を工場の敷地内に埋めて処分していたことが内部告発で明らかになっています。(第5回、GEN588号

ダウ・ケミカル社が枯葉剤の生産中止に追い込まれたという「有力環境団体の反対運動」とは、グリーンピースに製紙業界の内部文書が渡ったことを指しているものと思われます。このころ製紙業界が新たなダイオキシン汚染源(塩素漂白の過程で発生)であることが判明していましたが、その内部文書とは、製紙業界が賠償責任と規制を回避するために企てた情報公開操作と世論操作の戦略を説明した、300ページに及ぶ大作でした。それが ダウ・ケミカル社の発表の翌月、「安全の余地なし(No Margin of Safety)」という グリーンピースの報告書に掲載されたのです。

漏洩した内部文書には当時のアメリカ環境保護庁長官・リー・トーマスと製紙業界幹部との秘密会合について説明されていて、トーマスは業界に対し、「廃水や製品中のダイオキシン値を見逃すために、環境保護庁はリスク推定値を調整する」と約束していたのです。その他、環境保護庁と業界との癒着の実態が具体的に示されていたのです。

それだけではありません。イワン・ワトキンス・ダウ社が枯葉剤の生産を中止した直前、2つの重要な研究が行なわれていました。ひとつは、アメリカ連邦議会が1983年にEPAに指示した枯葉剤工場の調査であり、もうひとつは、アメリカ防疫センターによる「ベトナム戦争体験研究」と呼ばれた、退役軍人を対象とした枯葉剤被曝と健康障害の因果関係調査です。この研究は3年後の1986年6月になって、誰が被曝して、誰が被曝してないと特定できないので、調査が続けられないと発表しています。そして、大統領府高官との会議を経て、1987年に結論のないまま枯葉剤研究は打ち切られたのです。(ギブス「21世紀への草の根ダイオキシン戦略」ゼスト2000)前者の枯葉剤工場の調査もまた調査結果が公表されなかったため、グリーンピースがEPAに対し、「情報の自由法」に基づき、調査結果の情報公開を求めています。それでもEPAは回答しませんでした。その直後にダウ・ケミカル社がイワン・ワトキンス・ダウ社の枯葉剤の生産中止を発表したのです。

アメリカが最初に立案した枯葉作戦は1945年秋、西日本の水田を狙った24D散布でした。このときは原爆投下を優先したために実行されませんでしたが、このときから実に38年で、やっと3社が撤退。そして、最後の枯葉剤工場が枯葉剤の生産中止を表明したのはさらに4年が経っていました。対日枯葉作戦から42年目のことでした。

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■原爆投下がなかったら、枯葉剤が大量使用されていた。アメリカ人にとっての、ニッポン・コリア・ベトナムの位置づけがよくわかるね。■それにしても、国際政治とからまる大企業の策動は、巨大で複雑ゆえに、全体像をおおざっぱにつかむだけでもタイヘンだ。国策とむびついた政商たちが、軍需にズブズブになると、そこでは差別される異国のみならず、国内の弱者も、ひとあつかいをうけなくなるという、実に普遍的な問題だ。

■反対運動が功を奏するまでは、反対派は過激派あつかいされるし、アメリカなどは基本的に補償交渉にもちこませないし、イヤになるね。「つよきをたすけ、よわきをくじく」か…。悪徳弁護士みたいな連中がしきる政官財というイメージはさすがに過度の一般化であるとはいえ、ここにとりあげられているような一連の事態・コネクションは、水俣病や放射線被害とならんで、それら一般化が充分あてはまるとおもう。