■一日あいたが、前便で予告したとおり、「内田教育哲学」への補足のつづき。■『合気道とラグビーを貫くもの』(朝日新書)には、教育論にとどまらない、身体論・認識論として、めをみはるべき指摘がまだあるのだが、このシリーズでは、あくまで教育哲学としての射程を問題にしているので、それらにはふれない。
■それにしても、本書は「内田樹『先生はえらい』」ともかさなるんだが、まなぶがわがもたないと損をする まっとうな権威主義には言及するんだが、前回もかいたとおり、基本的にエリート主義教育のわくをこえないんだね。■だから、自己変革を継続中の師匠が、「せなかをみておれ」と、後続者たちをひきつれていくカリスマ論ではあっても、名人芸でしかなくて、ごく一部しか公教育では応用不能だという致命的欠陥をかかえる。■はっきりいって、大学だって平均水準とはいいがたい「自己変革を継続中の師匠」たちなのに、なんで、そういったカリスマ教師が小中高校に「常備」されるような体制がめざせるわけ? たとえば、米村でんじろう氏みたいな人材が、科学するこころをはぐくみ、背後にある物理学などの知的体系のピラミッドにいざわなれる…なんてことが、列島上でおきるとおもうか?
■それと、内田御大が くりかえしのべているとおり、たぐいマレなる天才的師匠との めぐりあいは、実は天才を天才とみぬく 後続者たちの嗅覚による必然といった構造をもつように、これは学習者の天賦の才が前提されている。そりゃ、無名のタルムード研究者から無限の知的継承のヒントをつかんでしまうような、レヴィナス御大のような天才は、どんな平凡にみえる人物からも、天才的な発見をなさるでしょうが(笑)。
■要は、これらはいずれも、カリスマ的な天才か、他者にカリスマを発見できる天才か、いずれかの希少な人材がかもしだす 偶然的なめぐりあいを前提にした教育論で、およそ公教育現場なんぞには、適用不能なんだな。 続きを読む
■それにしても、本書は「内田樹『先生はえらい』」ともかさなるんだが、まなぶがわがもたないと損をする まっとうな権威主義には言及するんだが、前回もかいたとおり、基本的にエリート主義教育のわくをこえないんだね。■だから、自己変革を継続中の師匠が、「せなかをみておれ」と、後続者たちをひきつれていくカリスマ論ではあっても、名人芸でしかなくて、ごく一部しか公教育では応用不能だという致命的欠陥をかかえる。■はっきりいって、大学だって平均水準とはいいがたい「自己変革を継続中の師匠」たちなのに、なんで、そういったカリスマ教師が小中高校に「常備」されるような体制がめざせるわけ? たとえば、米村でんじろう氏みたいな人材が、科学するこころをはぐくみ、背後にある物理学などの知的体系のピラミッドにいざわなれる…なんてことが、列島上でおきるとおもうか?
■それと、内田御大が くりかえしのべているとおり、たぐいマレなる天才的師匠との めぐりあいは、実は天才を天才とみぬく 後続者たちの嗅覚による必然といった構造をもつように、これは学習者の天賦の才が前提されている。そりゃ、無名のタルムード研究者から無限の知的継承のヒントをつかんでしまうような、レヴィナス御大のような天才は、どんな平凡にみえる人物からも、天才的な発見をなさるでしょうが(笑)。
■要は、これらはいずれも、カリスマ的な天才か、他者にカリスマを発見できる天才か、いずれかの希少な人材がかもしだす 偶然的なめぐりあいを前提にした教育論で、およそ公教育現場なんぞには、適用不能なんだな。 続きを読む