原爆 を含む記事

こんな連中のために、特攻兵たちは犬死したのか

■ことしのなつは、映画版『夕凪の街 桜の国』をみたこともあり、原爆関連の記事をたくさんかいた記憶があるが、非戦闘員のこうむった惨劇だけでなく、兵士たちの無残な末路も無視できないのは、いうまでもない。■とりわけ、戦地で収奪などをしたわけではなく、敵軍に打撃をあたえるという目的だけで犠牲となった兵士たちの「犬死」ぶりは、わすれるべきでない存在だ。かれらを英霊としてもちあげる策動もあるし。
■そんななか、感染症や飢餓、負傷などでしんでいった兵士の無念さも、さることながら、「英霊」の象徴としてさかんに称揚されてきたのが「特攻隊」であることは、いうまでもない。「同期の桜」など軍歌が、右翼街宣車からながれることはマレではあるが、それがイメージされるところに、特攻隊の政治的意味が象徴的にしめされている。■犬死以外のなにものでもない、作戦上の「外道」である「特攻隊」については、つい最近もふくめて何度もかいてきたが、おととしの8月15日には、保坂正康氏の本を書評するかたちで、「あの戦争は何だったのか」という記事で、かなりたちいったことをかいた。■それと関連して、とても気になるブログがみつかったので、一部転載する(「第259号 私の昭和史5 日本の特攻作戦」)。

 石原慎太郎の映画「俺は君のためにこそ死にに行く」を見た。すこし遅れたので冒頭の部分を若干見落とした。

 私が見たのは、多分玉井副長が関大尉に大西司令官の意向を伝え、最初の特攻指揮官として突入してくれと依頼する場面からだった。大西司令官は日本の敗北を予期しており、特攻攻撃でどれほど犠牲を出しても、それで局面を転換できるとは考えていなかった。しかも、なお特攻戦術を発案し、強行したのはなぜか。
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久間氏にとっての「政治的な言動」

■安倍政権の象徴的な人物のひとりであった久間氏。またまた、名物の一言居士ぶりを発揮。■『長崎新聞』から。

久間氏「不愉快な思いさせた」 
県庁で謝罪会見

 自民党の久間章生元防衛相(衆院長崎2区選出)は十三日、県庁で記者会見し、防衛相辞任につながった六月の原爆「しょうがない」発言について、「被爆者やご遺族らに大変不愉快な思いをさせたことを深くおわびしたい」とあらためて陳謝した。

 その上で発言の真意について「原爆を容認するものではない。許せないという気持ちは今も持っている」と述べた。被爆者団体への直接の謝罪は「結局、お会いするのは団体のトップになり、そうした方々は政治的な言動をされる。今のところ考えていない」とした。

 会見を受け、久間元防衛相の辞任直前、直接抗議した田上長崎市長は、「直接おわびしたいという思いの表れ」と一定の理解を示し、「被爆県選出の国会議員として核兵器廃絶に力を尽くしてほしい」と話した。

 一方、長崎原爆遺族会の下平作江会長は「今更謝られても心に響かない」。県被爆者手帳友の会の井原東洋一会長は「自民党の要職に就いて活動するため、とげを抜きたかったのでは」と冷ややか。被爆者団体のトップを「政治的な言動をする」とした発言に「なぜ長崎まで来て被爆者の感情を逆なでするのか」と批判した。
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迷走安倍内閣の軌跡(ウィキペディア「安倍内閣の動き」)

■安倍改造内閣は、すでに「降板」においこまれた閣僚がではじめた。■ウィキペディアは信用ならないというこえはおおきいが、それがつかいようであることは、すでにのべた。■安倍内閣・安倍改造内閣なるものが、いかなる本質をかかえているかは、つぎのような「きりばり」だけでも、充分問題点の整理がつくとおもう〔リンクをはしょった転写で、とりこんだ版があらためられている可能性がある〕。


安倍内閣の動き
安倍内閣は「美しい国づくり」と「戦後レジームからの脱却」をスローガンに、歴代自民党政権が成し遂げられなかった、教育基本法の改正や防衛庁の省昇格、国民投票法などを掲げ、教育については、教育再生会議を立ち上げ、第166回国会には教育再生関連3法案を成立させた。就任早々には、小泉政権下で首脳の往来が途絶えていた中国や韓国を訪問した。

組閣当初は70%近くの支持率があったものの、2005年の郵政国会において郵政民営化法案に造反し、党を除名された議員を復党させた。これにより支持率が急落。さらに、2007年の5月ころまでに、支持率も50%前後あったが、年金記録問題が同年5月下旬に持ち上がると、支持率が急落した。 さらに、閣僚の不祥事が相次ぎ、2006年12月の佐田行革担当大臣の事務所費問題を皮切りに、農林水産大臣(松岡利勝、赤城徳彦)の事務所費問題が起こり、久間防衛大臣の「原爆投下はしょうがない」発言により、閣僚が4人(佐田玄一郎、松岡利勝、久間章生、赤城徳彦)交代している。

2007年7月の第21回参議院議員通常選挙で与党は過半数割れの惨敗を喫したが、政権を続行する姿勢を示している。

以下、政権運営や支持率に大きな影響を与えた出来事を記載する。個々の閣僚の不祥事などは、個々の人物のページを参照。


松岡利勝関連
詳細は松岡利勝を参照


赤城徳彦関連
詳細は赤城徳彦を参照


長勢甚遠関連
詳細は長勢甚遠を参照
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原爆投下への日本政府の抗議再考2

前便つづき。■『朝日新聞』朝刊社会面にのりながら、ウェブ上にのらなかった記事があがったので、それをはりつけおく。

ポツダム受諾の「聖断」直前、
東郷外相が原爆抗議を指示

2007年08月30日13時09分

 戦争の終結をめぐって話し合われた1945年8月9日の御前会議が始まったのとほぼ同じ時刻に、当時の東郷茂徳外相名で、原爆の投下について米国に抗議するよう指示する電報が打たれていたことが、外務省が公開した文書でわかった。御前会議は約2時間半で終わり、ポツダム宣言の受諾が決まった。現在までを通じて、これが原爆投下に対する唯一の抗議となった。



広島原爆投下後の主な流れ

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 公開された文書の中に「大至急」と書かれた1枚の公電がある。発信は45(昭和20)年8月9日午後11時55分。《6日、米国飛行機数機、広島市に来襲。新型爆弾を投下せる為、市民多数に死傷者を出し、家屋もまた大半倒壊または焼失せり。その被害の甚大なるは到底従来の爆弾に比較し得ざるものなり。よって帝国政府は別電のごとき抗議を米国政府に提出いたしたきにつき――》

 原爆投下について、スイス政府などを通じて抗議するように駐スイスの加瀬俊一公使へ指示する東郷外相の公電だった。

 じつは加瀬公使も、原爆に抗議すべきだと考えていた。すでに公開されている別の文書によると、8日午後10時半(日本時間9日午前5時半)、入れ違いで東郷外相にあてた至急電でこう述べている。《大々的にプレスキャンペーンを継続し、米国の非人道的残忍行為を暴露攻撃すること、緊急の必要なり……罪なき30万の市民の全部を挙げてこれを地獄に投ず。それは「ナチス」の残忍に数倍するものにして……》
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原爆投下への日本政府の抗議再考

■日本政府が、2度目の原爆投下直後には米国に非人道的で残忍な攻撃である抗議しながら、敗戦後は まったく批判を封印したこと、国連等でのうごきにも、まったく対米追従の卑屈な態度で一貫してきたことは、すでにふれた〔「「しょうがない」再考 投下責任問い続けたい(中国新聞)」「戦後レジームをまもれば、それでいいのか?」〕。■きょうの『朝日新聞』の1面ほか特集では、外務省の公開した文書のなかに、たとえば「「聖断」直前 原爆抗議指示 1945年8月9日 戦争終結派・東郷外相「大至急」」といった記事もふくんでいたが、沖縄返還交渉でのかけひきなど1面記事同様、ウェブ上にあがっていない。■なので、『中国新聞』の記事の重要なものを ここではあげておく。

元大統領の「原爆必要」に反論せず 
日本大使館が黙殺
'07/8/30
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 広島、長崎への原爆投下を命じたトルーマン米大統領が引退後の一九五八年、原爆投下は必要だったとする広島市議会議長あての書簡を公表した際、元連合国軍総司令部(GHQ)のボナー・フェラーズ准将が反論するよう勧めたにもかかわらず、在米日本大使館は事実上「黙殺」していたことが、三十日付で公開された外交文書で明らかになった。

 久間章生元防衛相の「しょうがない」発言などで原爆投下に対する認識があらためて問われる中、第二次大戦を早期に終結させ犠牲者を最小限にとどめたとして原爆投下を正当化する米側の主張に、当時から直接反論してこなかった日本政府の対応ぶりをあらためて浮き彫りにしている。

 トルーマン氏は五八年二月に米テレビで、原爆投下に「良心のとがめを感じなかった」と発言。同三月には、抗議する広島市議会声明に反論する当時の任都栗司議長あての書簡を公表し、無条件降伏を求める四五年七月のポツダム宣言を日本がすぐに受け入れなかったと批判した。その上で、原爆投下により、連合国側と日本側双方で計百五十万人が死や身体障害者となることを免れたと主張、投下は「必要だった」と強調した。

 当時の朝海浩一郎駐米大使から藤山愛一郎外相あての三月二十日付の「極秘」公電によると、GHQで天皇制存続に尽力し、その後、帰米したフェラーズ准将が同十七日に朝海大使を訪問。昭和天皇は原爆投下の数カ月前に降伏を決めていたと述べてトルーマン氏の主張を「事実に反する」とし、「何等(なんら)かの処置に出てはどうか」と勧めた。准将は、当時の大統領が原爆投下に批判的なアイゼンハワーだったことから、トルーマン発言に抗議しても日米関係が損なわれる恐れはないとも指摘した。

 これに対し、朝海大使は「好意的勧告としてアプリシエート(感謝)する旨答えておいた」と報告。聞き置くにとどめ、具体的対応はしなかった。

 日本政府は米国の原爆投下について、交戦中の一九四五年八月十日、スイス政府を通じて米国政府に抗議文を提出したことはあるが、戦後は一度も抗議していない。
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